「上杉謙信」大義名分を重んじ、”軍神”と呼ばれた戦の天才!

義を重んじ、朝廷や幕府の再興も願っていたという上杉謙信。ライバルの武田信玄と争った川中島の戦いをはじめ、関東にも遠征して北条氏とも幾度となく戦い、その無類の強さから「軍神」の異名を持っています。本稿ではそんな謙信の生涯を追ってみます。


寺に預けられた幼少期

上杉謙信は享禄3(1530)年の1月21日、越後守護代・長尾為景の末子として越後国(現在の新潟県)の春日山城で誕生しました。


母は長尾氏の娘・青岩院(=虎御前)です。寅年に生まれたことにちなんで、幼名は「虎千代」と名付けられたようです。

なお、謙信という名は41歳で称した法号です。本記事においては便宜上「謙信」で統一することにします。


下剋上のハシリだった父

ここでちょっと父・為景時代の情勢に触れておきます。

越後守護代の職というのは、文字通り、越後守護の上杉氏を補佐する立場です。かつて越後長尾氏は三家(府中長尾家・上田長尾家・古志長尾家)に分かれて争っていましたが、これはのちに越後国が騒乱となった一つの要因と考えられています。


やがて越後守護代職は為景の家柄である府中長尾家が世襲。謙信の祖父である長尾能景は越後守護上杉房能を凌ぐほどの実権を持ったため、合戦中に房能の策略によって討ち死にしています。

為景は敵討ちとして上杉房能を自害に追い込み、傀儡の新たな守護として上杉定実を擁立。さらに仕返しにきた房能の実兄・上杉顕定をも討ち取っています。



つまり、為景は謙信の誕生以前より越後国内で下剋上を果たしていたのです。ただ、その後は上杉定実と対立関係となり、再び越後国内が激しい動乱となっています。


謙信はこういった厳しい状況の中で誕生しました。



寺で兵法を学び、信心深い少年に育つ

為景が隠居した天文5(1536)年、長尾家の家督は嫡男の長尾晴景(謙信の兄)に譲られます。


このとき7歳だった謙信は春日山城下の林泉寺に預けられ、学問の手ほどきを受けました。住職の天室光育は古語や漢学にも詳しく、母のもとから離されて修行に訪れた少年に学問の基礎や兵法を名実ともに授けていきました。


幼き謙信は観音菩薩の信者であった母に育てられた影響で信仰に興味を示したといいます。また、城の模型で城攻めの遊びをするのが好きだったとか…。


きっと下剋上の筆頭格で知られる父から乱世の厳しさを吸収していったのではないでしょうか。ここに毘沙門天を強く信仰し、軍神とまで呼ばれた謙信の姿がうかがえます。



元服・初陣・家督相続

天文の乱

やがて父為景は病死。敵対勢力が城下に迫っていた状況の中、謙信は甲胃を身につけて父の葬儀に参列したといいます。


当時、伊達家当主の伊達稙宗が三男・時宗丸を越後守護の上杉定実の婿養子に送ろうとしたところ、子の伊達晴宗がこの案に反発。伊達家中での稙宗・晴宗父子の対立をきっかけに大きな紛争に発展します。


天文11~17(1542~48)年の「天文の乱」と呼ばれたこの紛争は、伊達家内部にとどまらず、越後国内でも稙宗派と晴宗派に二分化して内乱状態となったのです。


晴景はこの混乱を治められず、越後長尾家では彼の命令に従わない家臣も現れていたといいます。晴景は元々病弱で器量にも欠けていたとも伝わっています。



14歳で元服、15歳で初陣

こうした中、謙信は天文12(1543)年8月に元服して「長尾景虎」 と改名。翌9月には兄晴景の要請を受けて、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入り、これを居城とします。


天文13(1544)年には、「長尾家恐るるに足らず」、と謀反を起こした越後の国人衆らに対し、謙信は少ない手勢を二手に分ける作戦でこれを撃退。この栃尾城の戦いで見事な初陣を飾り、早くも武将としての頭角をあらわしたのです。


栃尾城跡の麓・秋葉公園にある上杉謙信の座像
栃尾城跡の麓・秋葉公園にある上杉謙信の座像

19歳で家督相続、その後まもなくして越後統一

天文14(1545)年、上杉家の重臣である黒田秀忠が謀反を起こしますが、このときも謙信が総大将として陣頭指揮。二度に及ぶ黒田の挙兵を組み伏せました。


やがて長尾家中において謙信を当主にしようとする動きが出始め、晴景と謙信の関係は険悪なものになっていきます。
あわや内紛かと思われたが、天文17(1548)年、守護の上杉定美が調停に入り、晴れて謙信が家督と越後守護代を継承することに…。謙信19歳のときです。


天文19(1550)年になると、越後守護・上杉定美が後継者を指名しないまま亡くなったため、室町幕府13代将軍・足利義輝が、謙信に越後国主としての地位を認めることになります。


同年末、これに不満を抱いた同族の長尾政景が反乱を起こすものの、謙信は翌年8月までに鎮圧。姉の夫でもあり、老臣たちの助命嘆願もあって引き続き家臣としています。


この坂戸城の戦いをもって内乱が鎮静化し、越後国は概ね統一されたのです。


以後、謙信は同時並行的に関東(vs 北条氏)、信濃(vs 武田氏)、越中(vs 一向一揆勢力等)方面に出兵していきますが、
それぞれ分けてみていきましょう。
※注:方面毎にまとめたので時系列的に多少前後します。


川中島の戦い(vs 武田氏)

その後の謙信は、甲斐の武田信玄や関東の北条氏康と激しく戦うことに。きっかけは武田・北条ともに他者の土地への侵略でした。


上野国では天文21(1552)年に北条氏康が関東管領・上杉憲政の居城である平井城を攻略します。一方、隣の信濃国でも武田信玄が村上義清、および小笠原長時らを敗走させています。


領地を奪われた彼らはともに謙信の下に救いを求めてきました。そこで謙信は天文22(1553)年8月に信濃へと出陣。


ここに川中島を舞台として信玄との5度にわたる戦いがはじまります。


第一次合戦は互いに様子見

川中島で両雄の初対決となったこの第一次合戦は、武田軍が塩田城を拠点に守りきり、両軍は直接対決を避けました。越後に帰国した謙信はまもなく初上洛を果たし、13代将軍・足利義輝、そして後奈良天皇に拝謁しています。


天文23(1554)年には北条高広(きたじょう たかひろ)が武田信玄に通じて謀反。翌弘治元(1555)年2月までにこれを鎮圧した謙信は彼の帰参を許しています。


ただしその間にも、狡猾な信玄は上杉軍が雪で動けないこの時期をねらい、北信濃の地域の侵略をすすめていたようです。


善徳寺の会盟(甲相駿三国同盟)のイラスト
この頃に武田・北条・今川による甲相駿三国同盟が成立。武田・北条と敵対する謙信にとっては厄介なことに。

第二次合戦は長期滞陣でにらみ合い

雪解けの4月になり、謙信はようやく川中島まで出陣して第二次川中島の戦いがはじまります。このときは長期滞陣となって決戦は行なわれず、今川氏の仲介で和睦となりました。


なお、翌年の弘治2(1556)年には家臣同士の内部抗争や国衆の離反などに嫌気がさし、謙信は突如出家を宣言しました。

これを機に家臣の大熊朝秀が謀反を起こして信玄と通じますが、家臣らの懇願によって出家を断念して戻ってきた謙信がこれを鎮圧しています。


第三次合戦で川中島は信玄の手中に?

弘治3(1557)年2月、武田軍は和睦案を破って信濃国に侵攻。約束を反故にされた謙信は激怒し、両軍が再び対峙することになりました。


破竹の勢いで武田領へと侵攻する謙信。一方で謙信の強さを理解していた信玄は深志城から動こうとはせずに決戦を避けました。結果的に謙信は目立った成果をあげられず、川中島地域はほぼ信玄に掌握されてしまうことになります。


永禄2(1559)年5月に謙信は再び上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁。義輝から管領並の待遇を与えられています(上杉の七免許)。


第四次合戦は川中島最大の激闘!

関東遠征から越後へ帰国すると、謙信は越後国境を脅かす信玄との決戦を決意。同年8月には第四次川中島の戦いで再び両雄が戦うことになりました。


信玄vs謙信の一騎打ちイラスト

このときの合戦は川中島最大の激闘として知られ、謙信と信玄が一騎討ちをした伝説まで生まれるほど激しい戦闘となりました。しかし結局のところ勝敗はついていません。なお、12月には将軍義輝から一字を賜って、「上杉輝虎」と再び改名しています。


第五次合戦で閉幕。評価は?

永禄7(1564)年には、信玄が飛騨へ出兵したことで、これを牽制するために謙信は最後の川中島合戦へと出陣。


このとき、謙信は短期決戦で信玄を討ち取ろうとしていましたが、信玄が衝突を避けたためにまたしても長陣となっています。結局両軍が衝突することはなかったようです。


これで川中島の戦いは終わり、両軍の決着そのものはつきませんでした。ただ、信玄が武力による直接的な攻撃よりも、調略や同盟を駆使して戦略的に謙信を苦しめていき、結果的に領土を広げていった、という見方がされています。


関東遠征(vs 北条氏)

これまで武田氏との川中島合戦をみてきましたが、ここでは北条氏との戦いをみていきましょう。


少し時をさかのぼりますが、敵対関係にある北条氏に向けて進軍(関東遠征)したのは永禄3(1560)年です。同年5月の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ち取り、三国同盟が崩れたことが好機だったようです。


小田原城の戦い

すぐに北条討伐に向けて関東遠征を開始した謙信は北条方の諸城を次々と制圧し、関東制圧の拠点を厩橋城としました。関東の諸大名に北条討伐の号令を出すと、関東諸将たちは次々に結集していったようです。



上杉謙信の関東遠征マップ。青マーカーは上杉方の城。赤は北条方の城だが、×は遠征中に上杉方に攻略された城。

上杉軍の兵力は日増しに膨れ上がり、永禄4(1561)年3月に北条氏康の居城・小田原城に至ってこれを包囲した際には10万余の大軍になっていたといいます。

しかし、結局小田原城を陥落させることはできませんでした。長期滞陣で軍の士気は低下、さらに武田軍が背後を牽制する動きもみせていたので、謙信はやむなく撤退することにしています。


その後、鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄って関東管領・上杉憲政の要請によって山内上杉家の家督と関東管領職を相続しました。


鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

ここで「上杉政虎」に改名しています。関東管領就任式では家臣の柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ちを務めたらしく、謙信は鶴岡八幡宮へ黄金100枚を奉納したといわれています。

ちなみに前述しましたが、帰国後まもなく信濃へと出陣し、第四次川中島の戦いで信玄と死闘を繰り広げています。


関東方面は劣勢に

謙信は武田・北条の同盟に対抗して、安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶ等していますが、信玄の西上野侵攻が進むにつれ、関東戦線は徐々に劣勢に立たされていきます。


特に下野国の佐野氏には手を焼いたようで、永禄3~元亀元(1560~70)年唐沢山城の戦いで約10年かけても攻略できませんでした。


永禄9(1566)年の臼井城の戦いでも下総国で白井入道浄三の知略に敗れるなど、関東諸将らは謙信から離反して次々と北条方の軍門に降っていきます。


同年ノ9月には、信玄が長野業正の子・業盛を自害に追い込んで箕輪城を攻略したため、上杉勢は関東で完全に守勢に回ることになってしまうのです。


越中方面に注力するようになっていた天正2(1574)年にも、後顧の憂いを無くすために関東へ侵
攻、上野国の金山城攻めは失敗に終わっています。


なお、この頃、関東における上杉軍の影響力が大きく低下していたのもあり、上杉方だった武蔵国羽生城や関宿城が北条方に攻め落とされています。


越中攻め(vs 一向一揆勢力等)

武田・北条との戦いと並行し、謙信は越中国にも軍事行動を起こしています。


初の越中出兵は関東遠征の少し前にあたる永禄3(1560)年3月です。


越中国では謙信の従属下にあった椎名康胤が神保長職から圧迫を受けていましたが、救援要請を受けた謙信は長職を追い払っています。ただ、その後も長職は椎名氏への圧迫を続けたため、謙信はたびたび越中に出兵していくことになります。


敵に塩を送る

さて、川中島での戦い以降、武田氏との戦いは収束していましたが、信玄は飛騨や上野へも勢力を伸ばし、今川家に見切りをつけて織田信長と同盟を結んでいます。


永禄10(1567)年に武田・今川間の同盟関係が破綻。今川氏真は報復として海に面していない武田領への塩止めを実行しますが、これを聞いた謙信は信玄に塩を送ったというエピソードは有名ですね。

「敵に塩を送る」の故事は、このエピソードから誕生しているのです。



信玄の牽制により、翻弄される謙信

永禄11(1568)年3月には、上杉重臣の本庄繁長が反乱を起こし、7月には越中の椎名康胤も謙信に背きます。


こうして謙信は椎名康胤と本庄繁長の謀反鎮圧の対応に追われることになります。

  • 本庄繁長の乱(1568~69年)
  • 松倉城の戦い(1569年、vs 椎名康胤)

実は2人とも信玄に内通していました。信玄は徳川家康と共同で今川領を攻め取る計画(駿河侵攻・遠江侵攻)を立てており、謙信を足止めするために調略をしていたということです。


なお、同年は信長が上洛を果たして15代将軍足利義昭を誕生させていますが、謙信はその義昭より関東管領を再任されています。


武田と徳川は永禄12(1569)年、同時に今川領へ侵攻して今川氏を事実上滅亡させています。この影響で武田・北条間の同盟も破綻して両者は一時的に対立。その影響で上杉は北条・武田の両者とほぼ同時期に和睦しています(越相同盟・甲越和与)。


今川滅亡後の武田と他勢力の関係
今川滅亡後の武田と他勢力の関係(1569年)。一時とはいえ、武田・北条と和睦期間のあった謙信。

元亀元(1570)年には、越相同盟にともない、謙信は北条氏康の七男・北条三郎(のちの上杉景虎)を養子として迎え入れています。謙信は三郎を大いに気に入り、かつての自身の名である「景虎」を三郎に与え、自らは同年末に法号「不識庵謙信」を称しています。


元亀3(1572)年9月の尻垂坂の戦いでは一向一揆勢に圧勝していますが、これも事の発端は信玄が西上作戦(織田・徳川領への軍事遠征)のために、越中一向一揆を扇動して上杉軍の足止め作戦に出たからです。


信玄の死により、越中攻めに専念

しかし、西上作戦の途上で武田信玄がまさかの病死します。信玄という有力な後ろ盾を失い、勢力が衰退している越中一向一揆勢。これを機に謙信は一気に越中平定に向かうのです。


ついに信長と対立

反織田勢力の筆頭だった信玄の死後、天下の趨勢は織田信長に傾いていきます。


信長は天正元(1573)年に対立する15代将軍義昭を追放、越前の朝倉義景や近江の浅井長政を続けて滅ぼし、天正3(1575)年の長篠の戦いでも大勝利を収め、武田軍に大打撃を与えました。


謙信、本願寺と和睦して反信長勢力へ

しかし、天正4(1576)年に再び将軍義昭が反織田勢力を結集しはじめ、その一環で一向一揆衆のトップである本願寺顕如が謙信に和睦を求めてきました。


この頃に越中国を平定した謙信ですが、北陸方面に勢力を伸ばしてきた信長に脅威を抱いたのでしょう。本願寺と和睦し、反織田勢力に加担することを決意します。


七尾城の戦い

同年11月、能登制圧を狙う謙信は畠山氏の七尾城攻めを実施。畠山氏内部では、遊佐続光ら親上杉派と、長続連・綱連父子ら親織田派とに分かれていましたが、結局畠山と上杉は衝突することに。

遊佐続光らの手招きもあって、翌天正5(1577)年9月に難攻不落の七尾城降伏・開城させています。


手取川の戦い


その後、謙信は軍勢を南下させて能登末森城も攻略し、さらに迫りくる織田軍との対決に向けて南下していきます。


一方で信長は長続連から援軍要請を受けていました。柴田勝家率いる軍勢を七尾城の救援に向かわせていました。ただ、柴田軍は七尾城が陥落したことや上杉軍が南下していることを知らなかったようですね。


やがて両軍は鉢合わせ。状況を把握せずにあわてて撤退しはじめた柴田軍。謙信はこれを追撃して手取川で大勝しています。


手取川古戦場
手取川古戦場。謙信軍と信長軍との唯一の戦いとなった。

最期

しかし、謙信が織田軍と戦ったのはこれが最初で最後でした。


戦いに勝利した謙信は春日山城に帰還し、次の遠征準備をしていた最中の天正6(1578)年3月9日に急死。享年49でした。


亡くなるまで昏睡状態が続いていたため、死因は脳溢血といわれています。遺骸は鎧と太刀と共に甕の中に納められて漆で密封されました。

この甕は上杉家がのちに米沢城に移った後も本丸の一角に安置され、明治維新後には歴代藩主が眠る上杉神社に移されることになります。



まとめ

生涯を通じて家中の争いや周辺諸国の大名との合戦に明け暮れた上杉謙信。

関東管領職にこだわり続けたこと等から権威主義者と評価されることもありますが、越後国を治め、多くの国人領主や諸大名らを束ねていくためには必要なことだったともいえます。


彼は義を重んじ、合戦では無類の強さを誇り、軍神と称えられた比類なき戦国武将でした。そのため今日でも地元から慕われ、全国的にも知名度の高い将となっているのです。



 あわせて読みたい


【主な参考文献】
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』高志書院、2009年。
  • 花ケ前盛明『上杉謙信』新人物往来社、1991年。
  • 渡辺慶一『上杉謙信のすべて』新人物往来社、1987年。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。