「上杉景勝」波乱万丈の生涯を送った上杉謙信の後継者
- 2019/09/17
上杉謙信の養子として家督を継承した上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の名は、父ほどではないにせよそれなりの知名度があるかと思います。彼の生涯は良くも悪くもイベントに富んでおり、さらに直江兼続を描く際には彼の存在が欠かせないということもあるでしょう。
しかし、景勝の歴史的評価に関しては、人によってかなり見解が分かれるのも事実。そこで、この記事では彼の生涯をご紹介し、その功罪について考えていきます。
しかし、景勝の歴史的評価に関しては、人によってかなり見解が分かれるのも事実。そこで、この記事では彼の生涯をご紹介し、その功罪について考えていきます。
【目次】
幼少期の景勝
弘治元(1555)年、景勝は上田長尾氏の当主であり、国内で力をもっていた長尾政景の次男として生まれました。母は上杉謙信の姉で知られる仙洞院で、かねてより対立を深めていた謙信と長尾政景の和睦に伴って父母の婚姻が済まされたと考えられています。
幼少期の景勝については、幼名を卯松・喜平次と名乗り、政景の庇護下で成長していました。彼の兄はわずか10歳でこの世を去っていたので、後々には上田長尾氏を継承することも見込まれていたのでしょう。
また、この時期のエピソードとしては当時まだ直江家ではなく、樋口家の人物であった幼き日の直江兼続(幼名は与六)と幼馴染同然の関係にあったということでしょうか。年齢にしては景勝の方が5歳年上でしたが、勉学に遊びにと馬の合う少年同士であったという推測も可能です。
父の死後、謙信の養子となって後継者候補に
しかし、永禄7(1564)年に父の政景が船上で酒盛りをしている最中に不可解な溺死を遂げて以降、景勝の運命は大きく動き始めます。後ろ盾を失ったことにより謙信の養子となり、彼の本拠であった春日山城へと入りました。その後、上杉家の中でも有力家臣として見なされるようになり、父の支配下にあった上田衆を率いてこの地を支配しています。ところが、天正3(1575)年には彼に上杉姓と「景勝」の名を与え、後継者候補として列挙されることになりました。
謙信の死と後継者問題
もっとも、この時点で謙信には上杉景虎という養子もいて、彼もまた後継者候補の一角をなしていました。そのため、彼らのどちらを後継者にするか、謙信は当然ながらその決断をしなければなりません。しかし、近年の研究で様々な謙信の構想については仮説が提唱されているものの、それが正当な形で伝えられることはありませんでした。
なぜなら天正6(1578)年に謙信は急死してしまい、彼の遺言はわずかな側近たちのみが耳にしたと考えられているからです。加えて、その遺言も直江景綱の妻が危篤寸前の謙信に「後継者は景勝か」と尋ねたところ、それに頷いたというなんとも胡散臭い形でしか残されていません。
後継者争いを制するも…
景勝一派は先に見た遺言を根拠に、自身が正統な後継者であるとして春日山城へと入ります。ただし、従来考えられていたように謙信の死後まもなく、景勝派と景虎派の戦いが開始されたというよりは、そこから間が開いているという事実があるのです。
では、謙信の死から開戦までの間に何があったのか。一説には、厳格なことで知られる景勝が神余親綱という家臣が独断で行動したことを厳しく叱責し、こうした景勝の動きがしだいに反景勝派の家臣を増やしていったのでしょう。
そして、決して良好な関係とは言えなかった景虎も彼の独断専行に腹を据えかねたか、または反景勝派の家臣たちに担がれたか、ついに自身が正当な家督継承者であると主張し始めます。
こうして同年の6月に御館の乱が勃発。緒戦こそ景勝が勝利するものの北条・武田氏の勢力を後ろ盾にする景虎の力に押されるようになっていきます。
そこで景勝は景虎を後援する武田勝頼を越後から引きはがそうと画策し、彼に大金と反信長への協力を約束しました。当時かなり苦しい立場に置かれていた勝頼はこの要求をのみ、実質的に景勝側へと付く形で穏便に兵を退いていきます。
もっとくわしく
しかし、依然として北条氏の勢力はきわめて強力であり、景勝方は籠城戦によって耐え忍ぶことを余儀なくされました。それでも、彼らは「雪で退路をふさがれれば北条は撤退する」とにらみ、苦しい戦を乗り越えていきます。そして、その読み通り10月に入ると北条の勢力は撤退。実家の北条氏の支援がなくなったことで今度は景虎が苦境に立たされます。
景勝派には反撃の狼煙は上がりました。一転して御館への攻勢を強め、年末には景勝派が有利な形へと戦況が変化していきます。そしてこの状況は覆ることがないまま天正7(1579)年3月には御館が落城。景虎もその後まもなく討ち死にしました。
戦後の恩賞問題で内乱勃発!
こうして正当な後継者となった景勝は、国内の反乱分子討伐や側近である直江兼続の重用によって、これまで続いていた中世的な人治主義から中央集権的な政権を目指します。しかし、これを強固に推し進めたため、御館の乱で功を成したものの恩賞が不十分であったことに不満を爆発させた新発田重家が挙兵。ここに新発田重家の乱が勃発してしまいます。
もっとくわしく
重家は信長と結んで景勝を討ちにかかったため、上杉家は滅亡の危機を迎えることになりました。ところが、天正10(1582)年には本能寺の変が勃発したことで、まさに九死に一生を得ました。
一方、信長勢の後ろ盾を失った重家方は大きな痛手をこうむり、徐々に劣勢に立たされていくのです。
豊臣政権下で厚遇を受け、五大老へ
信長が死んで混乱状態に陥った彼の家臣らを尻目に、景勝はこの隙をついて領国から彼らを駆逐。さらに武田旧領(甲斐・信濃・上野)をめぐる天正壬午の乱でも信濃方面まで兵を進めるなど、押されっぱなしであった勢力を回復し始めます。そして、良くも悪くも彼の命運を決定づけることになったのが、信長亡き後に台頭してきた羽柴秀吉との関係強化でした。景勝は人質を大坂城へ送ると、諸大名の中ではいち早く秀吉への服従を表明します。
この後ろ盾をもとに、天正15(1587)年には信長亡き後も抵抗を続けていた新発田重家を滅ぼすと、翌年には佐渡を攻めて分国化を成し遂げます。
秀吉からは名実ともに多数のものを与えられており、従三位・中将・参議の職に羽柴・豊臣姓から在京料の1万石など、まさに「子飼いの将」という表現がふさわしいほどの厚遇を受けました。
天正18(1590)年にはかつての仇敵北条氏が秀吉に従わなかったため、彼の命で小田原攻めに従軍。前田利家とともに松井田城・鉢形城・八王子城の攻略に功を挙げ、秀吉による全国統一を助けました。
文禄元(1592)年の文禄の役では朝鮮の地へ赴き、1年ほど従軍を経験しています。
さらに、太閤検地や伏見城の普請工事、一向一揆の討伐など多方面で活躍し、秀吉からその労をねぎらう形で聚楽第に招かれ、饗応を受けるほどでした。そして、極めつけは慶長3(1598)年に秀吉の命で会津120万石に加増・国替となり、名だたる大名と共に五大老として位置づけられています。
関ケ原では家康と敵対…
ここまで見てきたように秀吉傘下の大名としてはトップクラスの成功を収めた景勝でしたが、同年に秀吉が亡くなってしまうとその風向きが変わり始めました。彼の死を受けて会津国内の整備や軍備強化に力を入れていた景勝でしたが、周辺諸国の大名たちは彼の動向を強く警戒していたのです。そして、春日山城主・堀秀治や角館当主・戸沢政盛が徳川家康に対し「彼に謀反の一心あり」と密告を働きます。
これを受けて、家康は上洛後ただちに釈明するよう使者を遣わしました。ところが、景勝はこの命令を拒否。それどころか、側近の兼続が家康を挑発するような「直江状」を送り付け、彼らの対立は決定的なものとなりました。
家康は軍議を開いて会津征伐を決断すると、大軍を遣わして会津へと攻め込みました。ここで中央でも石田三成が挙兵したため、家康軍は直ちに反転して西上。残された上杉軍は徳川軍を追討するのではなく、東軍に属していた伊達家や最上家を攻めました。
しかし、彼らを攻めている最中に関ケ原で西軍が敗れたという知らせをキャッチします。となれば上杉家としてもこれ以上の戦は自滅を招くだけであり、もはや彼らに撤退以外の選択肢は残されていませんでした。
こうして、直接的な戦闘に敗れてはいないにもかかわらず、政治的敗者となってしまった上杉家。彼らは明確に反徳川を掲げた巨大勢力であり、戦後処理の過程で改易されても不思議はないような立場に置かれることになってしまいます。
領地が4分の1に削減されるも、家名は存続した
戦後、和睦を決断した景勝は、兼続を通じて上杉に好意的であった徳川家臣と接触し、家康への謝罪あっせんを願い出ました。彼らの助力もあって謝罪の機会を得た景勝は、慶長6(1601)年に大坂城で家康と面会しその旨を伝えます。家康は上杉家の改易処分こそ下さなかったものの、これまでの会津120万石から米沢30万石への国替えという、極めて厳しい措置を言い渡すのでした。
それでも、景勝や兼続は粛々とその命に従い、以後は米沢藩の経営に乗り出していきました。
景勝は初代米沢藩主として兼続に領地を整備させる傍ら、これまで唯一の妻としていた菊姫に子ができないことを受け、側室を娶って後の上杉定勝を生ませました。
領地の大幅削減によって否応なく苦しい藩運営を強いられた景勝ですが、それ以後もあくまで徳川への忠誠を守りました。
特に慶長19-20(1614-15)年の大坂の陣では、かつての大恩がある豊臣家が、彼等だけでなく自分たちを苦境に追いやった徳川家に兵をあげるという構図になったため、景勝にしてみれば心情的に豊臣支持を表明しても不思議はありません。
しかし、彼はあくまで徳川の将として戦に参加し、徳川の勝利と豊臣の滅亡に大きな功を残しました。そして、元和9(1623)年に69歳で亡くなっています。
おわりに
ここまで見てきたように、人物に対する評価が非常に難しいのが上杉景勝という男の特徴でしょう。ただ、一つだけ言えることは、家名を残すことが極めて重要視されていた江戸時代において、上杉家は幕末までその名を守ったということです。これに関してはやはり景勝の功が大きかったのではないでしょうか。【参考文献】
- 「国史大事典」
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
- 鈴木由紀子『直江兼続とお船』幻冬舎、2009年。
- 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』洋泉社、2011年。
- 平山優『真田三代』PHP研究所、2011年。
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