「長尾為景」上杉謙信の父は、戦国期における下克上の代表格だった!
- 2019/08/21
越後の戦国大名といえば、言うまでもなく「上杉氏」が連想されるでしょう。上杉謙信に代表される「軍神」というイメージは、現代まで脈々と受け継がれているように感じます。しかし、上杉氏というのは、謙信が関東管領の上杉憲政から家督を譲られて称したもの。つまり、謙信は山内上杉家の養子に入ってから「上杉」を名乗るようになったのです。
謙信の本名は「長尾景虎」であり、越後守護代の一族である越後長尾氏の出身です。謙信がのちに越後の大名としての地位を確立できたのは、謙信の父である長尾為景(ながお ためかげ)の功績によるところが大きかったように思えます。そこで、この記事では為景の生涯や事績を紹介していきます。
謙信の本名は「長尾景虎」であり、越後守護代の一族である越後長尾氏の出身です。謙信がのちに越後の大名としての地位を確立できたのは、謙信の父である長尾為景(ながお ためかげ)の功績によるところが大きかったように思えます。そこで、この記事では為景の生涯や事績を紹介していきます。
下克上で守護代から事実上の戦国大名へ
生年こそハッキリとは分かっていませんが、為景は15世紀後半に誕生したと推測されています。彼の父は越後国守護代である長尾能景という人物でした。為景の幼年期~青年期に際立ったエピソードはありませんが、特に大きな不幸に見舞われることなく成長していったようです。
しかし、永正3(1506)年には能景が一向一揆討伐の際に戦死してしまったため、為景が家督を継承することに…。すると、為景は長年越後の守護大名として活躍していた主家・上杉房能と対立の兆候を見せ始めました。国衆の支持を一手に集める為景と、守護権力を高めたい房能の間には決定的な溝が生まれたのです。
こうして永正4(1507)年には為景が房能の婿養子である上杉定実を守護として擁立する、というクーデターを引き起こします。国衆の離反から不利を悟った房能は当時関東の地にて関東管領を務めていた兄・上杉顕定を頼ろうと逃亡を図りましたが、道中で捕縛され、自害を余儀なくされてしまうのです。
上杉顕定、定実らを一掃
当然、為景の振舞いに対して顕定は激怒します。弟の敵討ちのために永正6(1509)年に軍勢を率いて越後へ侵入。その攻勢を前に為景・定実コンビは越中に追い出される形に。これで為景の夢は潰えたかに思われましたが、再び息を吹き返します。なんと、戦だけではなく、外交にも力を入れていた為景は室町幕府に接近しており、幕府に「顕定討伐」の許可を出させるのです。
こうして「正義の戦」となった顕定討伐戦。為景は周辺諸国の諸将や国内の国衆の多くを味方につけ、顕定を苦境に陥らせて関東帰国を余儀なくさせます。そしてさらに撤退していく顕定を深追いし、道中で彼を自害に追い込んでいます。
顕定の死により、越後から彼の敵は消えたかに思われましたが、今度は事実上の傀儡として守護の座につけた定実が単独で権力をもちはじめ、やがて為景勢力と対立するようになっていきました。
しかし、永正11年(1514年)には定実を支持する家臣や国衆と戦を構え、これに勝利することで彼らを国内から一掃しています。
長尾氏の家格上昇に努める
事実上の権力者となった為景はまず、父が死ぬ原因となった越中国の勢力を打倒しようと兵を進めていきました。この国でも守護と守護代が対立していたため、為景は守護の畠山氏と協力して守護代の神保慶宗を討ち取ります。その結果として、為景には越中守護代の役職が与えられることになりました。しかしながら、肝心の越中一揆勢を制圧することはできなかったようで、ここは一揆の禁制を再確認するにとどめています。
その後、関東の北条氏や上杉氏と外交的な交渉を進めると同時に、先から見えるように彼は幕府や朝廷勢力との接近を図っていきました。関東では具体的な行動を起こすこともなかったものの、幕府には三管領という当時の要職に並ぶ格があると認められ、長尾氏の家格は上昇していきました。
ちなみに、為景のような「正当性のない後継者」が幕府や朝廷の後ろ盾を得ようとするのは、戦国ではよくあることで、それはちょうど国内で湧き上がっていた国衆からの反発をかわす目的があったようです。もっとも為景の場合、国内で独裁に近い政治体制を敷いていたことも原因であったようですが。
再び越後では内乱が吹き荒れる
為景による中央への接近は一定の効果を挙げたものの、国衆の反発を抑えるまでには至りませんでした。やがて定実の実家である上条氏の当主・上条定兼を総大将とした国衆の一斉蜂起が勃発することに。彼らの蜂起は事実上国を二分し、戦の動向が長尾氏だけでなく越後の運命を左右するほどに拡大していったようです。
享禄・天文の乱
こうして享禄3(1530)年に幕を開けたのが「享禄・天文の乱」であり、合戦は当初、上条方に有利な形で展開されていったようです。これに手を焼いた為景ですが、幕府に働きかけることで国内の領主を味方につけて収束させ、このときは難を逃れています。しかし、天文2(1533)年にふたたび定兼が挙兵。為景は防戦に追われ、次第に追い込まれていきます。そして、天文5(1536)年には上条勢力が本拠の春日山城にまで襲来。為景は圧倒的な兵力差を前にしながらも城に近い三分一原という地で防衛線を張り、絶体絶命の危機を乗り切ろうと奮戦します。(三分一原の戦い)
すると、幸運なことに上条勢に味方していたはずの平子右馬允という人物が突如として裏切ったことにより敵勢が総崩れになり、その隙をついた為景は敵を一挙に討ち取ることに成功したようです。
晩年の為景
その後、為景自身が隠居を宣言し、子の晴景を当主とした新たな体制で政治が行われました。この頃には伊達氏の子を婿として娶らせ守護の座を継がせるという計画に端を発した伊達の領地侵入問題などもあったようですが、ここはこれまで培ってきた朝廷との関係が功を奏して難を逃れています。為景自身は天文11年(1542)年に亡くなったようですが、その後の越後長尾氏は謙信の登場により、全盛期を迎えることになるのです。
まとめ:「享禄・天文の乱」で為景は敗北したのか
最後に、現代になっても議論が分かれている「享禄・天文の乱」の勝敗とその影響についてまとめ、記事の締めとします。従来の学説では、三分一原における戦いなど局所的な勝利こそあったものの、全体としては為景が隠居に追い込まれるなど上条方の勝利で幕を閉じたものと結論付けられてきました。
しかし、近年の乃至政彦氏の研究では、
- 三分一原の戦いが勃発してから13日後に上条定兼が亡くなっている
- 一連の戦を経て領内の「反為景」勢力が徐々に沈静化している
- 戦を通じて朝廷より「国内平定の綸旨」を受け取っている
ということを踏まえると、「守護代の一方的勝利」と見なすべきであるという見解が提唱されていました。
個人的には後者の見解を評価したいところですが、いずれにしても「国衆」という勢力が後々まで上杉家の障害になっていくほどに成長していたことは注目しなければならないでしょう。
ちなみに、同氏の研究においては、これまで不仲とされてきた為景と謙信親子の関係性をある程度見直しており、少なくとも謙信は為景を尊敬していたと評しています。
その証拠として、謙信が見せることになる「闘争心」や「義侠心」、さらには「呪術趣味」はすべて父の影響を受けてのもので、さらに朝廷や幕府といった公儀へのこだわりもまたそこに原因があると述べていました。
筆者としても、「謙信の異常なまでの性格」には「仏門に深く帰依している」というだけでは説明できない部分も多くあると考えていたので、この説明は的を射ている部分も多いと感じています。
仮に謙信がこうした父の背中を追いかけていたのであれば、為景の生きざまはまさしく歴史を大きく一変させたといえるのかもしれませんね。
【参考文献】
- 『国史大辞典』
- 矢田俊文『上杉謙信』ミネルヴァ書房、2005年。
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
- 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』洋泉社、2011年。
- 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』洋泉社、2011年。
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