「仙洞院(仙桃院)」上杉家中の後継者争いに翻弄された悲劇の女性

戦国後期の上杉氏は、家中の騒動によって大混乱を見せたという歴史的事実があります。わかりやすいところで言えば上杉景勝と上杉景虎の後継者争いによって引き起こされた、1578年の「御館の乱」がそれにあたり、その争いは戦国の勢力図をも左右する結果を生みました。

こうしたお家騒動の数々は、武将たちだけでなくその妻の生涯も含めて多くの悲劇を引き起こします。上杉謙信の姉で知られる仙洞院(せんとういん)を襲った不幸の数々はその最たる例でしょう。この記事では彼女の報われない生涯をご紹介していきます。

同族の上田長尾氏に嫁ぐ

享禄元(1528)年、仙洞院は越後で勢力を伸ばしていた守護代・長尾為景の娘として生まれました。

彼女は守護代を継ぐ長尾晴景の妹で、同時に上杉謙信の姉という立場に置かれます。なお、仙洞院(仙桃院)という名は法号であり、名は「綾」というものが伝わっています。


ただ、彼女が生まれたころにはすでに越後国内で内乱の動きが強まっており、権力を手にしていた父の死後は国内情勢が混沌としていきました。彼女の兄である晴景はそうした勢力を抑えることができず、代わりに弟である謙信が家督を相続したことからもその一端が窺えるでしょう。

こうした渦中の上杉家に生まれた女性である仙洞院は、当然ながら婚姻が大いに政治的な思惑をもって実行に移されることになります。

彼女が嫁いだのは上田長尾氏と呼ばれる同族の長であった長尾政景という人物でしたが、政景は為景や謙信といった越後上杉氏と対立する関係にありました。

そのため、仙洞院との婚姻は両者の和睦を目的として結ばれたものであると考えられています。ただし、その時期は天文11(1542)年前後という説や天文20(1551)年という説など様々で確定には至っていません。

長尾政景と仙桃院の肖像画
長尾政景と仙桃院の肖像画

政景の妻となった仙洞院は二男二女をもうけるなど順調な夫婦生活を送っていましたが、政景と謙信の対立は深まっていくばかり。そして両者はついに内紛を引き起こし、謙信もしびれを切らして政景のもとへ攻め込みました。緒戦は順調に見えた上田長尾氏も謙信の猛攻に白旗を上げ、彼らは越後上杉氏に下る決意をしたのです。

一説にはこのタイミング(天文20年)で仙洞院が政景の元へ嫁いだという説もありますが、以後も謙信は政景を許さなかったのでしょうか。結婚からしばらく経った永禄7(1564)年、政景は池の上で酒盛りをしている最中、船の転覆によって不可解な死を遂げるのでした。

その死の不審さや状況証拠から「暗殺説」が唱えられ続けているこの一件は、現代でも真相が明らかになっているわけではありません。しかし、少なくとも兄と夫の対立の末、夫が不審死してしまった仙洞院の悲嘆については想像に難くないでしょう。

謙信死後の家督争いで娘や孫を失う

未亡人となった仙洞院はこの時期に出家したと考えられ、その後は春日山城にいる謙信のもとで生活を送りました。亡夫と対立していたとはいえ、謙信とは良好な関係を築いていたという見方もあります。

しかし、この時期にも新たな禍の種が続々と撒かれていました。

夫の死後、息子の上杉景勝が謙信の養子となりましたが、さらに長女が上条政繁に、次女が上杉景虎に嫁がれたことで、彼らも謙信の養子に…。つまり、謙信の後継ぎ候補者が3人も誕生してしまうことになったのです。

上杉景勝の肖像画
仙洞院の息子・上杉景勝。謙信死後の後継者争いに勝利する。

そして天正6(1578)年3月、生涯にわたって実子を残さなかった謙信が急死すると、後継者を明言しなかったことにより、景虎と景勝の間で上杉家の跡目争い「御館の乱」が勃発。

仙洞院からすれば婿と息子の争いであり、先の内紛を思い出させるものであったことは間違いありません。結局、景勝の勝利に終わり、景虎夫妻は自害に追い込まれ、景虎嫡男の道満丸も殺害されてしまいます。

こうして仙洞院は娘と孫を失うという、またもや大いなる悲劇に見舞われてしまったのです。

晩年は景勝のもとで余生を過ごすも…

その後は息子景勝の庇護下で生活します。あの直江兼続を気に入り、お船の方の夫として直江家の後釜に推挙したという説もあるように、仙洞院は主君の母として振舞っていたと思われます。

お船の方と直江兼続のイラスト

が、彼女の悲劇はまだ終わっていませんでした。天正14(1586)年、彼女の次女が嫁いでいた上条政繁が兼続や景勝との対立から上杉家を出奔。そして慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの際には上杉家と対立し、戦勝者となったことで景勝に妻子の引き渡しを要求してきます。

徳川に背けばお家の命運が潰えるという確信があったであろう景勝はこれに背くわけにもゆかず、三人の孫たちは畠山政繁と改称していた彼の元へ引き渡されてしまうのです。

ただでさえ上杉氏が敗戦によって没落している最中なのに、孫たちをも奪われてしまった仙洞院。最終的に失意の中で慶長14年(1609年)に亡くなってしまいました。

彼女の一生は、戦国の理に振り回された不幸なものであったというほかありません。


【参考文献】
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 鈴木由紀子『直江兼続とお船』幻冬舎、2009年。
  • 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』洋泉社、2011年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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