「天文の乱(1542~48年)」伊達氏当主父子が争った内乱はなぜ起きたのか?
- 2020/11/26
戦国大名・独眼竜政宗の名で一躍有名となった奥州の名門、伊達氏。鎌倉時代より奥州で勢力を伸ばしてきましたが、実は16世紀半ばに内乱が発生し、伊達氏の支配力は低下してしまいました。
この内乱を「天文の乱」、またの名を「伊達氏洞の乱」と呼んでいます。今回はこの天文の乱がなぜ起きたのか、どんな経緯で終結したのかについてお伝えしてきます。
この内乱を「天文の乱」、またの名を「伊達氏洞の乱」と呼んでいます。今回はこの天文の乱がなぜ起きたのか、どんな経緯で終結したのかについてお伝えしてきます。
天文の乱の発生原因
伊達稙宗の政治方針
伊達氏十四代当主の伊達稙宗は、十四男七女と子どもに恵まれており、その子らの政略結婚を巧みに利用し、北は大崎・葛西、南は会津・仙道、西は越後、東は相馬と広大な領土の宗主として君臨しました。この結果、伊達氏の支配は格段に広がっていったものの、代償として内側の分裂を招いています。
おそらく単純に周辺の勢力を滅ぼしたり、吸収するといった支配の仕方であれば、内部分裂は起こらなかったでしょうが、稙宗は陸奥国守護職としての責任感からか、自国の力を割いてまで他家に協力しています。
ここが内乱の大きな引き金になっているのです。
例えば、長女が嫁いだ相馬兵部大輔顕胤をかわいがり、伊達氏の領土を割いて与えたり、三男の伊達時宗丸(実元)を越後国守護上杉兵庫頭定実に養子に出す際も、越後国の平安を保つためには軍事力が必要だとして伊達氏の精鋭百騎を時宗丸に付けて送り出そうとしています。
精鋭百騎を失うということは、伊達氏にとって大幅な軍事力低下を意味していました。このような政治方針に異を唱えたのが伊達氏の譜代家臣であり、その主張を尊重して立ち上がったのが稙宗の嫡男である伊達次郎晴宗だったのです。
おそらく当初は話し合いが行われたと考えられますが、話し合いでは解決しないと晴宗は決断し、決起することになりました。
稙宗側についたのは周辺の奥州諸侯
こうして父子が争う天文の乱が起こるのですが、稙宗に味方した者は周辺諸侯でした。筆頭は稙宗の長女を娶った相馬顕胤です。ちなみにこの顕胤は天文の乱の終結後、稙宗の身元引受人となっています。稙宗が嫡男以上に愛情を持って接したのが顕胤だったのかもしれません。他にも二女は蘆名修理大夫盛氏に嫁いでおり、次の当主となる蘆名盛興を産んでいます。会津国の蘆名氏も相馬氏と同じく稙宗に味方しました。また、羽州探題の最上氏も、稙宗の妹が最上義定の正室であり、新当主の最上義守の後ろ盾を稙宗が務めてこともあり、味方しています。
さらに仙道の三氏にも娘を嫁がせており、二階堂輝行、田村隆顕、懸田俊宗らも稙宗を味方し、綱宗・元宗を入嗣させた亘理氏、他にも国分氏、粟野氏、黒川氏なども稙宗を支持しました。
稙宗の二男である伊達小僧丸は、奥州探題を務めた大崎高兼の娘を正室に迎え大崎義宣と名乗って大崎氏を継いでおり、こちらも稙宗を支持。また、葛西陸奥守晴重にも入嗣させており、こちらの葛西晴清も稙宗を味方しています。
伊達氏を取り囲む周辺の諸侯のほとんどが稙宗を支持していたわけです。
一方で晴宗を支持した主な他家勢力といえば、晴宗の正室の父親である岩城重隆、晴宗の叔父で稙宗の弟である留守景宗、入嗣した大崎義宣と対立した大崎義直、同じく入嗣し家督を継いだ葛西晴清と対立した葛西晴胤(入嗣し家督を継いだのが晴胤という説もあります)くらいでした。
勢力的には圧倒的に晴宗側が不利だったというわけです。そのため天文の乱はおよそ6年間という長期に渡り続くことになってしまいました。
天文の乱の経緯
晴宗が父である稙宗を幽閉
弟の時宗丸の上杉氏への入嗣を阻止するため、晴宗は実力行使に出ます。『伊達正統世次考』によると、天文11年(1542)6月、稙宗を捕らえ、西山城に幽閉したとあります。これは時宗丸が越後国へ向かう直前だったようで、時宗丸の入嗣は中止されました。
ところで当時の伊達氏の当主はどうなっていたのでしょうか? 稙宗は晴宗に家督を譲ることになりますが、この時期が定かではありません。天文10年(1541)6月以降であり、翌年の4月までと考えられていますので、稙宗の幽閉は伊達氏当主としての晴宗の決断だったということです。
一説に稙宗の娘を娶った懸田俊守が稙宗に急接近し、勢力を拡大していたため、それを警戒した晴宗の動きだったというものもあります。
幽閉された稙宗は、小梁川宗朝に救出され、伊達氏家臣だけでなく周辺諸国を巻き込んだ内乱になります。
譜代家臣の顔ぶれをみると、金沢宗朝、堀越能登、富塚仲綱らは稙宗派、一方で晴宗派は桑折景長、小梁川親宗、新田景綱、白石宗綱、中野宗時、牧野宗興ということで、伊達氏家臣は晴宗を支持していたことがわかります。
天文の乱は外戚と譜代家臣の戦いだったという側面があるわけです。
前半は稙宗が優勢であり、天文15年(1546)6月には稙宗が西山城を奪還。晴宗は拠点を北の刈田郡白石城に移します。北部は留守氏だけが晴宗方として孤軍奮闘しており、劣勢でしたが、この拠点の移動が北部戦線に影響を及ぼし、柴田郡や伊具郡では晴宗勢力が息を吹き返しました。
将軍足利義輝による和解勧告
形勢を決定付けたのは、これまで長く同盟関係にあった蘆名氏が晴宗側に寝返ったことでしょう。天文16年(1547)、蘆名盛氏は、田村隆顕と対立。盛氏はこのことで義父の稙宗を見限り、義兄の晴宗に味方したのです。こうして南部戦線でも晴宗方が優勢となっていきます。また、同時期に晴宗は拠点を西の出羽国置賜の米沢城に移し、家中の支持派を拡大させたと『伊達正統世次考』には記されています。
天文17年(1548)には形勢はほぼ決まり、ここに至って、蘆名盛氏・岩城重隆・懸田俊宗・相馬顕胤・二階堂輝行といった伊達氏と姻戚関係にある面々が仲裁に入り、室町幕府将軍足利義輝の和解勧告を受ける形で内乱は終結しました。稙宗は西山城を出て、伊具郡丸森城へ移ります。西山城は和睦の証として廃城となりました。表向きは和睦ですが、完全に稙宗の敗北という結果です。
このように伊達氏は晴宗による新しい領国支配へと舵を切っていきます。晴宗の脅威とされていた懸田氏は和睦後の晴宗の処遇に対し不服を唱えて抵抗したため、天文22年(1553)7月には滅ぼされました。
おわりに
天文の乱は、古い秩序を破壊し、新しい伊達氏の支配を実現するための晴宗によるクーデターという意味合いが強いといえます。このクーデターで、確かに伊達氏譜代家臣たちの不満は解消されたでしょうが、姻戚関係にあった相馬氏などは完全に敵対関係になってしまいました。奥州全域の支配力は低下したと考えていいでしょう。また、譜代家臣の中野氏や牧野氏の権勢が増したことによって、伊達氏当主の支配力自体も揺らいでいきます。伊達の歴史において、晴宗が暗愚の主君、中野宗時が姦臣扱いされているのはそのためです。
もし天文の乱が起きなければ伊達氏はさらに大きくなって、独眼竜政宗の時代を迎えていたことでしょう。そうなると天下取りの構図も変わっていたに違いありません。越後国でも入嗣した上杉実元が活躍し、上杉謙信の出番はなかったかもしれません。そう考えると、この天文の乱は東国の大きな節目だったといえるでしょう。
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【主な参考文献】
- 高橋富雄『陸奥伊達一族』(吉川弘文館、2018年)
- 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
- 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)
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