藩を挙げて偽札造りにいそしんだ福岡藩。実際にはその他の藩も…

江戸時代、諸藩が領内の通貨不足を補うために発行した藩札(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸時代、諸藩が領内の通貨不足を補うために発行した藩札(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 世界中で贋金(がんきん。ニセの貨幣)は正規通貨の発行と同時に発生したと言っても良いでしょう。日本でもさっそく、最初の流通貨幣と言われる和同開珎の贋金「私鋳銭」があらわれ、律令政府は最高刑を死罪にまで引き上げてこれを阻止しようとしています。

 それから1100余年…。幕末・明治にも藩の金繰りに困って贋金造りに手を出した藩がありました。

筑前福岡藩(黒田藩)

 江戸幕府が開かれて以来、諸藩は特産物を育て、出費を抑えて藩財政の改革にいそしんできました。佐賀藩・長州藩・米沢藩など改革に成功した藩もありますが、上手く行かなかった藩も多く、筑前福岡藩もその一つでした。

 福岡藩の借金は慶応2年(1866)の時点で既に多額の藩債、つまり藩の借金を抱えていました。その額は129万両という巨額に達していたにもかかわらず、翌年の年初から始まった戊辰戦争の戦費調達によって、借金はさらに膨れ上がります。

 さらに明治新政府が追い打ちをかけるように各藩に藩札の通用禁止を命じました。ここへ来て福岡藩は開き直ります。

「今さら藩政改革などしても、129万両の借金返済など到底無理。無理無理無理!」

そうだ、贋金を造ろう!

 それでも借金は返さねばなりません。窮状解決に誰が発案したのか、福岡藩はトンデモ借金返済法を思いつきます。

「そうだ、贋金を造ろう!」

 具体的には明治新政府が発行した太政官札(だじょうかんさつ)の偽物を造ろうと言うのです。

 太政官札とは、わが国最初の全国通用紙幣で、しかも金貨・銀貨との引き換えが可能な兌換紙幣です。慶応4年(1868)5月から明治2年(1869)5月までの期間、発行されました。

太政官札(金一両札、慶応4年発行。出典:wikipedia)
太政官札(金一両札、慶応4年発行。出典:wikipedia)

 発行当初は太政官札100両(10両×10枚)は二分金で40両程度でしたが、明治2年(1869)に新政府は発行予定の金貨・銀貨との兌換紙幣と位置付けたため、紙幣は額面に近い価値で取引されるようになります。

「こんなに旨い話はないな。紙の札を造れば金貨・銀貨と同じ価値で通用するのだ」

 福岡藩は藩の大参事・郡成巳(こおりなるみ)らが主導、同じく大参事の立花増美(ますみ)らが賛成します。大参事とは明治初期に置かれた役職で、現在なら副知事、幕藩体制なら家老に相当します。さっそく国許の元家老・野村家の空き屋敷に100人余りの職人を集め、大々的に偽札づくりを始めるのです。

以前から横行していた偽の紙幣

 偽の紙幣づくりは何もこのときに始まったのではなく、江戸時代にも横行していました。

 江戸幕府は全国通用の貨幣として金貨・銀貨、銭貨を鋳造していましたが、紙の紙幣は発行していません。紙幣を発行したのは各藩の藩札や、特定地域限定で通用した町村札や大商人が発行した商人札などです。これらの藩札・商人札にも偽札が出回り、正規の発行元は朱印を押したり敢えて手書きの文字を入れたりと防戦に努めましたが、いたちごっこの有様でした。

 こうした江戸期の紙幣の偽造を知っていた明治新政府は、その威信にかけても、偽造紙幣が出回らないよう苦心しました。

 まず用紙に用いたのは、紙の名産地・越前和紙の特産地でも選び抜かれた5ヵ所の村で、政府命令で特注の紙を漉かせます。もちろん製法は国家機密です。しかしこのとき丈夫な紙をと注文したのが仇となって、用紙の表面に小さなデコボコが出来てしまいました。加えてまだまだ稚拙だった当時の印刷技術のせいもあり、出来上がった紙幣の印刷具合にかなりのばらつきが出ました。

 これはもう偽札づくりには付け込まれる元です。当時は全国規模の新聞などはありませんから国民全体の情報の共有も出来ず、一般国民が偽札に気づくのは難しかったのです。

「ふふ。うまく行ったようだ」

 これで気が大きくなった福岡藩は、偽造太政官札で北陸方面の米を大量に買い付けます。さらに明治3年には藩の会所吟味役や通商局員が、北海道で偽造紙幣を19万両使おうとしました。

悪事は続かないもの

 一方、福岡藩に怪しい動きがあると見ていたのでしょうか。政府の監察機関である弾正台の局長・渡辺昇らは、密偵の伊藤龍馬を使って調べを進めていました。

 明治3年(1870)7月、偽札製造現場の空き屋敷を急襲した彼らは偽造用具を押収、偽造に関わった職人たちを捕えると同時に、偽札造りを主導した郡や立花らを国許で、偽札を使った会所吟味役たちを北海道にて逮捕します。

 事の成り行きに狼狽したのは、福岡藩知事となっていた元の福岡藩主・黒田長知。薩摩の西郷隆盛に泣きついてとりなしを頼みますが、さすがに藩ぐるみの巨額偽造事件は許されるはずもありませんでした。

福岡藩第12代藩主の黒田長知。偽札造りを知らされておらず、まさに青天の霹靂だった。
福岡藩第12代藩主の黒田長知。偽札造りを知らされておらず、まさに青天の霹靂だった。

 事件発覚から1年後の明治4年(1871)、藩知事の黒田は免官・閉門、郡や立花ら5人は処刑されます。他にも10人以上が懲役や閉門・流罪となるなど、極めて厳しい処分を受けました。福岡藩は全国の廃藩置県に先立って廃藩となり、新たに発足した福岡県の知事には、有栖川宮熾仁親王が就任しています。

 もっとも太政官札の偽造を行っていたのは福岡藩だけではなく、安芸広島藩や出羽秋田藩・加賀前田藩の支藩などでも藩ぐるみの偽札づくりが行われていたようです。これらの藩は偽造した量が少なかったり、弾正台からの警告に従って偽造をやめたり使うのを中止したので不問に付されました。しかし福岡藩は大参事自らが先頭に立ち、しかも偽造・使用したのが数万両から数十万両と巨額であったため、断罪は免れなかったのです。

おわりに

 藩を挙げての偽札づくりとはかなりどうかと思うのですが、これが他にもやっている藩が結構あるのですね。かつては江戸幕府の粗悪な貨幣鋳造に業を煮やした薩摩藩が290万両もの偽貨幣を鋳造、ほかにも10以上の藩が贋金造りに関わっていたようです。

 当時は贋金造りのハードルが低かったのでしょうか。


【主な参考文献】
  • 植村峻『お札の文化史』NTT出版/1994年
  • 川口素生『新・江戸三百藩大全』廣済堂出版/2018年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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