「幕末の給料」将軍や新選組の年収はどれくらい? 幕末武士たちの給料(禄)を役職ごとに追ってみた!

「あれ、これっていくら?」大河ドラマや時代劇では、お金に関する話題が出たときに考えることってありますよね?


幕末の給料をテーマとする当記事の執筆にあたって、歴史系の専門著書はもちろん、国税庁や造幣局のHPを参考にしながら、当時の渋沢栄一の記録も参照しました。将軍や新選組など、興味のある分野ごとに分けてまとめてあります。


読み終えた頃には、きっと大河ドラマや時代劇が何倍も分かりやすく、身近に感じやすくなっているはず!? さっそく幕末の給料について見ていきましょう。


武士の給料と通貨価値

武士の給料は禄? サラリーの額には2種類の表示法が存在


大河ドラマや時代劇を見ていると、時々お金や給料に関する話題が出てきます。
「○○石取り」とか「○○俵○人扶持」などなど…


江戸時代や幕末までは、土地の標準的な収穫量は「石(こく)」と用いて表示していました。


江戸時代は、仕官する人間(主に武士)が受け取る給料を「禄(ろく)」と呼びました。禄は金銭や米、あるいは土地で支払われています。


武士の給料の支払いには、大きく分けて以下の二通りがありました。


知行取

領地を与えて直接村から年貢を納入してもらう方式。「〇〇石取り」というように表記されます。手取りは税が引かれて、額面表記の35%ほどです。


蔵米取

一旦勘定所に収納された米を支給する方式。さらにここには切米取(年3回に分けて支給)と扶持米取(人数分の食料が毎月支給)がいました。「〇〇俵〇〇扶持」というように表記されます。


兵糧・米俵のイメージ

一人分の扶持米が年間5俵支給。二人扶持は10俵が貰えることになっていました。
ちなみに1石=2.5俵で交換されています。


1両は約10万円? 江戸時代の基本的な通貨価値

通貨に換算すると、1石はだいたい金1両という相場です。


大河ドラマや時代劇では、1両と言う単位がよく登場しますね。実際にいくら位の価値だったのでしょうか。まず、江戸時代の通貨は、以下のように4進法を基本としています。


  • 1両=4分=16朱=4000文

時代によって貨幣価値は変動しますが、この記事では以下を採用します。後述の給料算出に使っていますので、ざっくり頭の片隅にでも置いておいてください。


  • 1両=10万円
  • 1分金(銀)=2万5千円
  • 1朱金(銀)=6250円
  • 1文=25円

超規格外!? 将軍と旗本の給料とは


幕末の将軍の年収っていくら?

武士の頂点といえば、征夷大将軍ですが、その年収とは、どれほどだったのでしょうか。


享保15(1730)年の収支データが残されています。当時は江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の世でしたが、彼の年収総額は、79万8800両に及んでいます。


全国各地にある領地(天領)が64%、残りを金山や銀山、長崎貿易の運上金や御用金が占めています。
当時の1両を16万円だとして、吉宗の年収は約1278億円にも上りました。


幕末になると、貨幣価値とともに将軍の年収は変動します。吉宗の年収をベースに1両10万円で計算すると、およそ798億8000万円。幕末期の将軍たちの年収は約800億程度だったことが推測できます。


現代の総理大臣の年収はおよそ4000万円ほどなので、将軍のそれがいかに規格外であるかが、よくわかりますよね。


旗本は超高給取り!? 500石の給料を現代に換算してみた

続いて幕臣(幕府に仕える家臣)、特に旗本の給料について見ていきたいと思います。


幕臣の中で将軍に御目見が許されている身分が「旗本」です。将軍の直属の家来ともなると、年収はどれくらいになるのでしょうか。


大身の旗本となると5000石を領する家も存在していました。しかしほとんどは、石高500石以下の家々で占められています。
5000石と500石をそれぞれ金額に換算して見てみましょう。なお、実際の手取りは、石高の35%です。


5000石を換算すると…

  • 5000石×0.35=1750石

1石=1両(10万円)として、年収は1億7500万円となります。


また、500石を換算すると…

  • 500石×0.35=175石

1石=1両(10万円)として、年収は1750万円となります。


幅があり過ぎる! 御家人と渋沢栄一の給料


御家人は高給取りで内職暮らし?

御家人のほとんどは、知行地を持たない蔵米取でした。知行地を持つ御家人でも、200石ほどの小身です。


200石を換算すると…

  • 200石×0.35=70石

1石=1両(10万円)として、年収は700万円です。



また、時代劇『御家人斬九郎』では、主人公が無役で「30俵二人扶持」とされています。
なお、蔵米取りは、額面がそのまま受け取れますので、石高の35%に必要はありません。

これを踏まえた上で「30俵二人扶持」を換算すると…

  • 30俵=12石(1石=2.5俵で計算)。1石=1両(10万円)として、120万円
  • 二人扶持=米10俵=4石。1石=1両(10万円)として、40万円

1石=1両(10万円)として、120万と40万。つまり、年収は160万円です。


こうしてみると、御家人斬九郎は現代の平均年収以下の額だったようですね。都市部である江戸に住む以上、彼の暮らし向きは、決して楽ではなく、身の回りの必要経費や物価高に悩まされます。内職を行なったり、御家人株を売りに出す例も出ていました。



大河『青天を衝け』でも描かれた、一橋家時代の渋沢栄一の給料を解説!

大河ドラマ『青天を衝け』で、初任給を受け取るシーンがあります。
主人公・渋沢栄一は従兄・喜作と二人で一橋徳川家に奥口番として仕官。実際に受け取った俸禄の記録も残っています。


渋沢栄一の肖像写真
大河ドラマ『青天を衝け』の主役・渋沢栄一の肖像写真

元治元(1864)年2月、渋沢栄一は一橋家から4石二人扶持(年額)、滞京手当として、月額4両1分の俸禄を受け取っていました。
実際にいくらだったのか、計算してみましょう。


4石二人扶持(年額)を換算すると…

  • 4石=4両(40万円)×0.35(石表記の取り分は35%)。よって14万円
  • 二人扶持=米10俵=4石。1石=1両(10万円)として、40万円

4両1分(月額)を換算すると…

  • 4両(40万円)+1分(2万5000円=42万5000円。年(12か月)換算で510万円

上記から、14万円+40万円+510万円。つまり、栄一や喜作らの年収は584万円+米10俵(40万円分)になります。


初任給ながら、下級の御家人には及ばないものの、かなり高額な収入を得ていました。しかしこれには理由があります。
当時、京都は政情不安な危険地帯です。天誅や破壊行為に晒される可能性があり、滞京手当が潤沢に支給されたものと考えられます。


栄一と喜作は、上司・平岡円四郎に重用されていました。平岡の死後は、黒川嘉兵衛に付いて出世への階段を上っていきます。
以降の役職と収入の変遷を見てみましょう。


元治元(1864)年9月 御徒士に昇進。8石二人扶持、滞京手当6両。

  • 8石=8両(80万円)×0.35=28万円
  • 二人扶持=米10俵=4石=40万円
  • 滞京手当6両=60万円×12ヶ月=720万円

よって、748万円+米10俵(40万円分)が年収となります。


慶応元(1865)年2月 小十人。17石五人扶持、滞京手当13両2分。

  • 17石=17両(170万円)×0.35=59万5千円
  • 五人扶持=米25俵=10石=100万円
  • 13両2分=130万円+5万円=135万円 ×12ヶ月=1620万円

よって、1679万5千円+米25俵(100万円分)が年収となります。


同年8月 一橋家御勘定組頭。25石七人扶持、滞京手当21両。

  • 25石=25両(250万円)×0.35=87万5000円
  • 七人扶持=米35俵=14石=140万円
  • 21両(210万円)×12ヶ月=2520万円

よって、2607万5000円+米35俵(140万円分)が年収となります。


大河ドラマでは、栄一は給金と同時に米切手(米の保管証書)を受け取っていました。
米切手は換金することも可能なので、金額換算分は別途分けてあります。


幕末の京都は超危険!? 赴任した伊庭秀俊と新選組の給料

登城は月七日で、月額76万円!? 将軍の親衛隊・伊庭秀俊の給料とは?

幕臣の給料は、他と比べて必ずしも潤沢ではありませんでしたが、幕末になると、危険な任務が増えていきます。将軍警護の従事者ともなると、得られる給料と待遇は恵まれたものでした。


幕末に上洛した奥詰(将軍の親衛隊)・伊庭秀俊(伊庭八郎の義兄で養父)には、月額の俸禄とは別いに「賄い」と呼ばれる食費まで支給されています。


秀俊の俸禄は月額で「金5両3分2朱(58万7500円)」が支給。
これに対して賄いは、一度に「金1分(2万5000円)」から「金3分(7万5000円)」が確認されます。


二条城への出仕は、月におよそ七度とされています。つまり月額での賄いは、最低でも17万5000円が貰えていました。


奥詰は、将軍家の警護役です。危険と隣り合わせとはいえ、基本給と食費で、月額で確実に76万2500円の給料を貰えています。
年額に直すと、915万円を得ていました。


在京任務とはいえ、将軍警護が危険な目に遭うことは稀です。幕府はかなりのホワイト企業であったと言えるでしょう。


新選組の給料は旗本クラス!? 近藤勇や土方歳三、沖田総司の年収に迫る!

幕末の組織と言えば、真っ先に思い浮かぶのが新選組です。


新選組のイメージイラスト

新選組は幕府方の治安維持組織として、京都の市中警備を担当。尊王攘夷派の弾圧と取り締まりに従事していました。
局長・近藤勇や副長・土方歳三も、仕事をする上で俸禄は発生しています。


元二番隊組長の永倉新八は『新撰組顛末記』で「組頭は月30両(300万円)、平隊士は月10両(100万円)」と述べています。
しかし当事者である永倉の記述は誇張された可能性があります。そこで同時代の史料を参考にしてみましょう。


京都の豪商である両替屋・三井家が記した『新選組金談一件』には、以下のように記述されています。

「組頭以上者一ヶ月御手当金壱人シ両宛、余者セ両ツヽ之由」


シ両もセ両も、三井家で使用していた符牒(暗号)です。


シ両→10両(100万円)、セ両→2両(20万円)、となります。つまり組頭以上(沖田総司や永倉、斎藤一ら)は一月に10両、平隊士は2両が俸禄として支給された計算でした。


局長の近藤と副長・土方は組頭と同等か、それ以上の金額を支給されていたはずです。
永倉の『新撰組顛末記』では、局長が50両(500万円)、副長が40両(400万円)を支給されたとありました。


前述のように誇張だとして割り引いても、月に30両(300万円)から20両(200万円)は貰っていた可能性があります。


局長と副長が同額とは考えにくく、近藤が30両、土方が20両ほどと仮定してみましょう。すると新選組の年収は


  • 局長・近藤勇     3600万円
  • 副長・土方歳三    2400万円
  • 一番隊組長・沖田総司 1200万円
  • 二番隊組長・永倉新八 1200万円
  • 三番隊組長・斎藤一  1200万円
  • 平隊士        240万円

と予想されます。


新選組は、最前線で命懸けの任務についていましたので、超高額というより、自然発生的に手当が高くなったと言える金額ではないでしょうか。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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