徳川幕府の経済を支えた天領、オイシイ所は幕府のもの!
- 2023/09/07
本来、天領とは朝廷の直轄地を指す呼び名です。明治維新となり、徳川幕府が持っていた領地のほとんどが明治政府、つまりは天皇の直轄地になったため、さかのぼってこれらの土地を天子様の御領、天領と呼ぶようになりました。それ以前は公領とも御料所・公儀御料所とも様々な呼び方をされていました。
独り勝ちの家康、巨大な領地を手に入れる
豊臣秀吉の命で関東移封となり、破格の250万石を与えられた徳川家康。そのうえ、関ヶ原合戦(1600)の自軍の勝利で巨大な領地を敗戦大名家から没収します。実に全国総石高の34%にあたる632万石を手にしました。さらには後年の大坂の陣(1614~15)において、豊臣家を滅ぼした後のその所領65万石も手に入れます。もっともこれらの領地を家康が独り占めにしたのではなく、各大名や旗本への論功行賞で分け与え、徳川一門や新たな譜代大名家の創出にも使われました。
その後も大名の改易や減封・逆に加増などで出入りがあり、宝永6年(1709)2月に将軍の側用人であり、朱子学者の新井白石が述べたように「勘定奉行の荻原近江守が申すには、御領すべて400万石、歳々納められる金は76万両」に達します。
そして徳川吉宗政権下の延享元年(1744)には、天領は最大の463万石に達しました。その後は少し減りますが、天保13年(1842)には全国の総石高3055万石のうち、14%を天領が占めており、幕末に至るまで400万石以上を保持し続けます。
これが幕府の蔵入り地(天領)であり、そこからの収入が幕府の経済を支えました。
天領はどこにあったの?
そんな天領がどこにあったのかと言うと、将軍のお膝元で幕府の軍事的要衝である関八州や東海道沿い、豊臣氏の拠点である京都や商業の中心地 大坂を擁する上方周辺のほか、全国に散在しています。北は最上川舟運の中心地出羽・大石田から、南は豊臣氏が直轄地としていた九州の軍事的要衝の豊後国日田、鎖国政策下で唯一の海外貿易港であった長崎まで、江戸時代後期にはロシアの南下に備えて蝦夷地も天領となりと、全国51ヶ国に散らばります。
ほかには当時世界最大と言われた佐渡金山や伊豆金山・生野銀山・石見銀山・足尾銅山など大きな収入をもたらす鉱山も、一点狙い撃ち的に天領にされます。なかでも金・銀・銅を産出する佐渡は慶長6年(1601)から幕末まで、佐渡ヶ島全体の一国が天領となりました。
飛騨山脈を擁する飛騨高山藩は豊富な木材資源に恵まれ、金・銀の鉱山も抱えていたところから幕府に目を付けられてしまいます。元禄5年(1692)、第六代藩主・金森頼旹(かなもりよりとき)の時に突然出羽国上山藩に転封を申し付けられ、その後、飛騨一国は幕府の天領となって金森家6代107年間の統治は断ち切られました。適当な理由を付けられたのでしょうね。
特に幕府は貨幣鋳造に直結する鉱山を欲しかったようで、貴重な地下資源を占有して諸藩に対する優位性を保とうとします。特に金と銀は全国で通用する統一貨幣を鋳造するのに必須の鉱物です。これを押さえて徳川幕府は安定した長期政権を保ちました。
天領は誰が治めた?
各藩はそれぞれの大名が、江戸は江戸町奉行が行政や司法を受け持ちましたが、天領は誰が治めたのでしょう?それは勘定奉行の支配下に置かれた代官、時代劇でおなじみの「お代官様ぁ」が務めました。 代官は江戸初期には旗本の中から選ばれましたが、中ごろになると勘定所役人や農民の中から選ばれたりもします。代官は代官陣屋を構え、そこに家族とともに住んで執務をこなしますが、これが結構なお屋敷でした。簡素な城のようなもので、広い敷地の三方に堀と土塁を巡らせ、厳めしい門を構えた中には手代や侍・足軽の長屋もあります。代官役所・お白洲・米蔵も備え、建坪は200坪を超えました。
天領は譜代大名領と外様大名領のはざまに置かれることが多く、そこの代官陣屋はいざ戦となれば軍隊の後方支援の小荷駄奉行の拠点となり、兵站基地となります。太平の世が続いても徳川幕府は基本的には軍事政権です。
天領・石見銀山とは
往年の時代劇で毒薬と言えば「石見銀山鼠捕り」です。これは銅と共に掘り出される砒石、すなわち猛毒として知られる砒素を含む鉱石を焼成して作られた殺鼠剤です。「猫いらず」とも言い、殺人にも使われたと言う劇薬ですが、実際に鼠捕りの原料に使われたのは、近在の津和野の笹ケ谷銅山から大量に掘り出された高純度の亜ヒ酸だそうです。 江戸時代、天領を管轄していたのはその地に置かれた代官所ですが、石見銀山は大森代官所が管轄していました。この代官所は付近に点在する幾つかの飛び地の天領も配下に置き、笹ケ谷銅山もその一つで産出品は大森代官所を通じて江戸に送られました。その過程で混同があったのか通りが良い石見銀山の名前が使われたようです。いわば商標ですが「石見銀山鼠捕り」は語呂の良さもあって、鼠の害に悩まされていた当時、売れまくりました。
この鉱山は関ヶ原合戦で西軍の大将に祭り上げられた毛利輝元から家康が奪い取り、天領となります。武田信玄の元で鉱山開発に携わっていた大久保長安が経営を任され、世界有数の銀山に成長し、当時の南蛮貿易の支払いとして産出した銀が大量に海外に流出しました。
元禄期以降は生産量が減少、現在では採算が取れる鉱脈は無いとされ、鉱山としては廃鉱となりましたが、観光事業に活路を求めています。
おわりに
何をするにもまず先立つものは金。江戸幕府は米や特産物の豊かな生産地、政治・経済・交通の要所、港湾・鉱山・山林地帯を重点的に天領として確保し、しっかり経済基盤を整えたのです。【主な参考文献】
- 藤野保/編『論集幕藩体制史第1期[4]』(雄山閣出版/1994年)
- 青沼隆彦/編『江戸五百藩』(中央公論新社/2022年)
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