水道がなかった時代。飲料水・生活用水の確保はどのようにしていたのか?

 いつの時代でも、人々の生活に「水」は必要不可欠な存在です。健康な生活のためには、安全な飲料水の確保が必要ですし、料理や洗濯、風呂等の日常生活でも水は大量に使われています。

 現代では蛇口をひねれば水が出てきますが、かつては人力で水を確保していました。そこにはどのような工夫があったのでしょうか。今回は、我々に身近な生活用水の歴史を概説したいと思います。

自然からの生活用水確保のあれこれ

その1:川

 古代文明が川沿いに発展したように、人々はまず川や池、湖、山奥の湧き水など、自然に真水が湧き出ている箇所から生活用水を確保しました。

 現代は人口も増え、日常的に化学薬品を使っているため、自然の水をそのまま使える箇所は限定されています。しかし、人口が少なく、使用する薬品の量が少ない間は、ある程度自然の力で浄化できたので、川や池の水をそのまま利用することができました。実際、戦後すぐの頃はまだ用水路や川で洗濯をしたり野菜を洗ったりする光景が見られました。

 川や池などは確かに便利でしたが、近くに住むことにはデメリットもあります。日本は梅雨や台風、秋雨があり、水量を増した川が氾濫する危険がありました。池や湖も山奥だったり湿地帯にあったりと、住むのに適さない場所の事もあります。そのため、人々は人為的に水を得る方法を考えました。

その2:雨水

 大気汚染が少なかった時代は、雨水も生活用水として活用できました。簡単な方法として、地面に穴を掘ったり、壺や桶を雨の日の屋外に置いたりして、水を集めていました。

 平安時代頃になると、軒端に木や竹でつくった樋を巡らせて雨を集める技術も発達しました。庵や寺院に張り巡らされた樋の様子、また水が樋を伝い、貯水用の器に落ちるときの音などは、物語文学や『徒然草』などで風情あるものとして描写されています。

 雨水は生活全般に使うほか、大規模な屋敷や寺院では庭の池や遣水の水源として使われました。

その3:井戸

 川や池から遠い山間部や高地でも、地面を掘ると地下水が湧きだす場所があります。人々はそんな水脈を掘り当て、井戸として活用していました。

 井戸は高度な技術が必要そうですが、それらしい遺構は縄文時代から見られます。しかし本格的に井戸を掘り始めたのは弥生時代以降です。

 なぜ弥生時代以降に井戸を使い始めたのか、考えられる原因は複数あります。

 たとえば弥生時代にはムラどうしの戦いを受けて環濠集落が発展し、集落内に水源があった方が守りを厳重にできるから、という説もあります。また水田耕作で農業用水が必要になった説、青銅器製造で水が大量に必要になった説など、技術発展を起因とする説もあります。また仏教の伝来とともに風呂が伝わり、より多くの水が必要になったから、という宗教的要因を指摘する説もあります。

 現時点ではいずれか一つだけに原因を求めることは難しく、これら諸要素が相互に関わりあって、今まで以上に水を使う生活様式になったことが井戸の発展につながったとされています。

 井戸もまっすぐ地下に掘り進む形だけではありません。土地の性質によっては、いったん円錐形に地面を掘り下げてから井戸を掘ることもあります。また、崩れるのを防ぐために井戸の穴の内側は板や石垣で補強されます。その技術も時代ごとに変化し、様々な規模の井戸が作られました。

 井戸の発達により、川や池から遠く離れていても水を得る手段ができました。井戸は、都市部での生活用水のみならず、城内に設置して籠城に備えるなど軍事的にも重要なインフラとなりました。

 井戸はまた信仰の場所でもありました。正月の一番初めに汲む「若水」、仏前に供える水を取る井戸を「閼伽井」と呼ぶなど、水への民間信仰と仏教とが融合した習慣が広まりました。

 現代でも、井戸水を生活用水とする地域は少なくなく、古代から人々の生活を支え続けています。

江戸時代の「水売り」

 戦国時代以降、大名が大規模な城下町を建設することが増えると、立地によっては水の供給量が需要量より少なくなる事がありました。江戸の町においても、湿地や干潟を埋め立てて造ったので、井戸だけで水をまかなうのは不可能なため、人口密集地には生活用水を人力で運ぶことも出てきました。

 また、人口が増えたことで、川の規模によっては生活排水を分解しきれずに汚れてしまう事態や、井戸があっても水を汲みすぎて夏に枯れてしまう事態も発生したようです。

 そこで江戸時代に登場したのが「水売り」という職業です。

 水売りには2種類あり、1つは現在でいうウォーターサーバー事業者のような、飲み水運搬業者です。契約した家に、きれいな川や井戸から汲んだ水を定期的に供給します。時期にもよりますが、価格は水がめ1杯で100~120文で売っていました。

 もう1つの水売りは、夏の都市部に屋台として現れました。彼らは夏場に冷たい飲み物を提供する店で、現在ではジューススタンドのような感じでしょうか。金属製の器に冷たい水と白玉、砂糖などを入れて提供し、価格は幕末の江戸で1杯4文。砂糖が多めに入って12文の店もあったとか。

 きれいな飲み水、夏でも冷たい水を入手することは、江戸時代においても簡単ではなかったのです。

江戸における上水のはじまり

 大規模な生活用水確保事業として「上水(じょうすい)」の設置も行われました。「上水」は現代でいえば「上水道」で、飲料用の水のことを指します。江戸時代以前、井戸を掘るのに適さない土地に生活用水を供給するため、水源から樋や水路を用いて水を供給しました。

 戦国時代の小田原城下町にあった「小田原用水(早川上水とも)」は日本最古の上水、つまりは ”日本初の水道” と言われています。とはいっても蛇口等は当然なく、あくまでも現代の水道(近代水道)の原型となる水道施設です。

 小田原用水については天文14年(1545)に連歌師・宗牧(そうぼく)が記した『東国紀行』に記載があるので、後北条氏2代目の北条氏綱か、3代目の氏康の治世に整備が進んだものと思われます。

 小田原用水は早川を水源とし、小田原市板橋から取水して小田原市浜町付近まで水を伝えました。現在も用水に関わる遺構が数多く残っています。

早川上水(出典:wikipedia)
早川上水(出典:wikipedia)

 用水は、天正18年(1590)の小田原征伐をきっかけに、全国の大名の間に広がりました。江戸時代になると、江戸の町に水を供給するため複数の上水が建設されました。全国的にも、神田上水・赤穂上水・福山上水が三大上水道と称されるほか、仙台など大きな城下町でも独自の上水が引かれ、人々の生活を支えました。

おわりに

 現代では水道があり、蛇口をひねると日本全国どこでも安全な水が手に入る時代です。しかし蛇口など、現在と同じ水道施設である近代水道ができたのは明治時代に入ってからです。かつての日本は水を得るだけでも一苦労だったのです。

 生活に最も密着したものであるが故に、生活のための水をどこから確保していたか、また水を得にくい場所に住むためにどのような工夫をしていたかを知ることで、人々の暮しの工夫や大名たちの城下町計画をより身近に知ることができるのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 鹿毛敏夫編『戦国大名の土木事業』(戎光祥出版、2018年)
  • 秋田裕毅・大橋信弥『井戸』(法政大学出版局、2010年)
  • 堀越正雄『井戸と水道の話』(論創社、1982年)
  • 小野正敏・五味文彦・萩原三雄編『水の中世』(高志書院、2013年)
  • 小田原市歴史的風致維持向上計画(第2期)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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