戦国時代の貨幣とは?種類や歴史、入手経路を概説!

戦国時代の「貨幣」には、どのようなものがあったのでしょうか。

江戸時代の貨幣は一般に良く知られているようです。銭形平次が投げる「寛永通宝」に代表される銭、悪徳商人が賄賂で渡したり、強盗が盗んだりする小判などは特に有名です。一方で戦国時代の貨幣は、秀吉の大判以前のものは特に知名度が低いのではないでしょうか。

そこで今回は戦国時代のお金を一挙大公開。どんな種類のお金を使っていたかを概説するとともに、戦国時代特有の事情が生んだ高度な取引システムもあわせてご紹介します!

「銭」最も流通した貨幣

入手経路

戦国時代に最も一般的だったのは「銭」です。銭は中央に四角い穴がある円形をしています。ただし日本製ではなく、戦国時代の200年ほど前から、中国から輸入した銭を主に使っていました。織田信長の旗印として知られる「永楽通宝」も、明の永楽帝治世期(1402~1424年)に作られた中国銭です。

永楽通宝
永楽通宝

輸入銭を使っていた理由は諸説あるようですが、一説によると、自国で鋳造するよりも、他国の銭を銅や銀で買ったほうがコスパが良かったとの事です。

価値

基本的に、銭は全て1枚1文です。戦国時代の日本は輸入物の銭を主に使っていたので、輸入した時期によって表面の文字が「永楽通宝」や「洪武通宝」など様々なのですが、すべて1枚1文でした。 ちなみに1文は現代のだいたい100円にあたります。

当時の銭は、品質にばらつきがありました。欠けているものや、使い古されて表面がすり減ったもの、中国で作られた偽銭、また日本で作られた偽銭なども、かなりの数が混ざっていました。

商人の中には、自己防衛として、偽物っぽい銭や汚い銭を受け取らない人も出てきました。すると、「自分が持っている銭で品物が買えない」という状況が出てきて、人々はますます変な銭を排除し、良い銭を求めるようになりました。

これを「撰銭(えりぜに)」といいます。

撰銭がエスカレートすると経済活動に悪い影響が出るので、戦国大名の中には撰銭の行為そのものを禁止したり、良い銭と悪い銭との交換比率(悪い銭n枚で良い銭1枚とする、など)を定めたりする大名も出てきました。

銭不足と解消法

戦国時代、銭は不足気味だったようです。輸入に頼るにも限界がある点、国内経済の発達で小口取引が増えた点、また撰銭の影響などが原因です。

解決策はいくつかありました。偽銭(偽物のお金のこと)を作ることもその一つです。現代ではお金の偽造は重罪ですが、戦国当時はもともとの輸入銭にも偽造品が入っていたこともあり、ある程度は黙認されていました。

銭不足解決として、また大口取引を円滑にする方法として、キャッシュレス化も進みました。具体的には、付け払いや手形取引などの信用取引が普及しました。

さらに当時の慣習として、債権を他人に譲渡することが容易でした。なので、たとえば甲が乙から一貫文の品物を買った時、現金のかわりに手形を渡した場合、乙はそれを使って丙から一貫文の品を買って、丙が甲に支払いを求める…ということも多々ありました。

「銀」大航海時代に海外で有名?

入手経路

日本は銀の鉱山がありました。特に16世紀以降開発が進んだ石見銀山(いわみぎんざん)は当時、世界最大規模の銀産出量を誇りました。

銀山遺跡模型。戦国時代、石見銀山は大内氏と尼子氏(大内氏滅亡後は、毛利氏と尼子氏)による争奪戦が続いた。
銀山遺跡模型。戦国時代、石見銀山は大内氏と尼子氏(大内氏滅亡後は、毛利氏と尼子氏)による争奪戦が続いた。

鉱石から銀を取り出す技術は、戦国時代初期の日本にはありません。そのため、当初は鉱石を明や朝鮮半島に持ち込んで精錬してもらっていました。やがて現地の技術者からひそかに方法を学ぶ者がでてきて、効率のよい精錬方法「灰吹法」が日本にもたらされました。以降、国内で銀の精製が大量にできるようになりました。

価値

銀は基本的に秤量貨幣でした。後に一定量を打ち延ばした大判のようなものも流通します。

単位あたりの価値は、時期によって異なりますが、おおむね1匁(もんめ、3.75g)が200文です。今の価値に換算するとグラムあたり5000円前後となり、現代のプラチナや金と同程度の価格水準でした。

ちなみに現代の銀はグラムあたり100円前後。当時、鉱石からの精製がいかに手間のかかるものだったかが分かります。

海外貿易との関係

銀は東アジアの貿易に使える国際通貨でした。当時盛んだった中国や朝鮮半島、東アジア諸国との貿易で、銀は確実な支払い手段として好まれました。この頃、ヨーロッパ船が日本に接近していますが、東アジアの品物を買いたいヨーロッパ人にとっても日本の銀は魅力的な品でした。

国内での流通は、貿易拠点や銀山がある西国が中心でした。博多周辺では、すでに永禄年間(1558~1570)から銀での納税が見られます。京都では、贈答や高級品の購入など大口取引に銀が使われていました。
また、公家の日記や信長の法令などから、一定の重さの銀を打ち延ばした銀大判のようなものが流通していたことも分かっています。

「金」当初は贈答品だった!

入手経路

日本は古くから金がとれました。平安時代、奥州藤原氏が東北の金を使って中尊寺金色堂を飾っています。

戦国時代も、佐渡金山のほか、伊達氏が出羽国で砂金を採掘した他、今川氏が駿河安倍川で、武田氏が甲斐黒川で金山開発をしています。国産の他、輸入した金も出回っていたようです。

価値

金も基本的に秤量貨幣でした。後に一定量を打ち延ばした大判や小判が流通します。

単位あたりの価値は、時期によって異なりますが、おおむね1両(16.875g、4.5匁)が1500~2000文です。今の価値に換算するとグラムあたり9000~11000円程度で、現在の約2倍の価格です。

戦国時代から現代にかけて、銀は値段が50分の1に落ちたのに対して、金の価値は変化が緩やかなのが分かります。

贈答品から貨幣へ


金は、平安時代~鎌倉時代は装飾品の材料として広まりました。

室町時代になると、金がとれる大名が将軍への進物として金を贈ることも見られました。この時は貨幣というよりも宝石に近い位置づけでした。

金が貨幣となるきっかけのひとつに、遠隔地とのお金のやりとりが盛んになった点があります。大量の銭を運ぶのは物理的に不便である上、危険を伴います。そこでいったん相当額の金や銀を買い、それを目的地近くで再び換金して、大量の銭を運ぶ不便さを解消する動きが出てきました。

そのような動きなどが重なって、金も貨幣として定着しました。最終的に、豊臣秀吉が天正大判を鋳造し、江戸幕府が金で大判・小判を発行するに至り、金の貨幣化が完了します。

戦国時代における国内での流通は、金山がある関東が中心でした。甲州金の存在は諸説ありますが、確実な史料に依拠しても、1570年代には北条氏領国内で金が貨幣として流通しています。畿内でも高額商品の購入や、大寺院が年貢の送金を金でしている例が見られます。

形状は、砂金で行ったり、一定量を打ち延ばした形にしたりなど、さまざまなものが見られました。

コラム:貨幣としての米

銭不足を補うもう一つの方法として、米で支払う方法もありました。畿内では常態化していたようで、永禄12年(1569)、織田信長が京都に発布した撰銭令の中に、代金を米で支払うことを禁止する文言が見られます。

事実、米は少額の決済に便利でした。米は1合で銭2文、ちょっとした身の回りの買い物であれば米を5~6合も持っていけば事足りました。むしろ銭だと悪い銭が入っている等と面倒もあったので、米のほうが楽だったかもしれません。

結局、米を銭の代替にする方法は長く残りました。その名残が石高制です。室町時代までは土地の取れ高を銭に換算する貫高制がありましたが、銭自体が不安定な品だったため、米での表記が定着しました。

おわりに

今回は戦国時代の銭・銀・金の使われ方について概説しました。

戦国人たちは、銭の諸問題に直面したときに、信用取引や金銀への交換といった、500年前とは思えない高度な経済テクを駆使して解決をはかりました。

戦国時代というと大名や武将たちにスポットが当たりがちですが、名もない庶民の経済活動もまた見どころがある時代なのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 本多博之『天下統一とシルバーラッシュ』(吉川弘文館、2015年)
  • 川戸貴司『中世日本の貨幣流通秩序』(勉誠出版、2017年)
  • 高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社、2018年)
  • 川戸貴史『戦国大名の経済学』(講談社現代新書、2020年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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