正解!
ざんねん…
答えは「加賀百万石の藩祖」
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前田利家は、安土桃山時代の武将で、織田信長や豊臣秀吉の天下統一に向けた戦いで活躍し、秀吉が築いた豊臣政権では徳川家康と共に中核として支え、江戸時代の加賀藩(現在の石川県)100万石の礎を築いた人物です。
利家は、天文7年(1538)に尾張国荒子村(現在の名古屋市中川区)で生まれました。幼名は犬千代で、後に又佐衛門を名乗ります。少年時代から織田信長に仕えていましたが、喧嘩っ早い性格で、信長から勘当されたこともありました。
同じころ、信長の家来となっていた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と仲良くなり、互いに「又佐」「藤吉郎」と呼び合いながら、切磋琢磨を続けていました。二人の友情は、立場が変わっても生涯続いていくことになります。
利家は、信長のもとで武将として活躍するようになり、姉川の合戦や長篠の合戦など、多くの戦いに従軍し、武功を上げていきます。それとともに支配を任される領地も増えていき、能登(石川県)一国の城主へと出世しました。
天正10年(1582)に本能寺の変が起きて織田信長が討たれ、後継者に名乗りを上げた秀吉と織田家筆頭家老の柴田勝家が対立するようになります。利家は勝家の部下でしたが、友人である秀吉に味方することを決断しました。秀吉は実直で男気がある利家を信頼し、利家も秀吉をサポートし続けてきた結果、能登、加賀、越中(富山県)の3国100万石の大名となったのです。
天下統一を成し遂げた秀吉は、実力ある大名たちが幼い後継者・秀頼を支えていく「五大老」という仕組みを作ります。最大の実力者である徳川家康らとともに、利家は五大老の一人として秀頼の後見役を担います。
慶長3年(1598)、秀吉は病床の枕元に五大老を呼び、「秀頼をよろしく頼む」と遺言します。とくに古い友人である利家には、豊臣家恩顧の大名たちの人望も厚かったことから、家康に対抗できる唯一の大名として、後事を託したかったのでしょう。しかし、秀吉の死からわずか1年後、慶長4年(1599)に利家は亡くなります。豊臣政権の重鎮の死は、政権内部の決定的な対立を生み、家康の天下取りにつながっていくのです。
前田利家の正室は「まつ」の名で呼ばれ、11人の子宝に恵まれ、夫婦仲が良かったと言われています。まつは、秀吉の正室である「ねね」とも親しく、子供がいなかった秀吉夫婦が四女の豪姫を養女として迎え入れたほどです。
利家の死後、家康から謀反の疑いをかけられた前田家を救うため、まつは自ら人質となって江戸へ出向きました。まつの決断もまた、加賀藩100万石の礎となったのです。
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