前田利家と織田信長の男色は本当か?

若き日の織田信長像(左、岐阜県岐阜市)と前田利家公初陣之像(右、愛知県名古屋市)
若き日の織田信長像(左、岐阜県岐阜市)と前田利家公初陣之像(右、愛知県名古屋市)

織田信長と前田利家の疑惑

 織田信長(一五三四〜八二)と前田利家(一五三八〜九九)の間に、男色の関係があったとする説がある。

 信長との関係は『利家夜話』(別題『亜相公御夜話』『利家公御夜話』『菅利家卿物語』『陳善録』等)の「鶴の汁話」に見えるとされる。それはおよそ次の内容として紹介されている。

 天正某年──。
 信長の新たな居城が安土山に完成し、その祝いとして織田家臣たちが招かれた。鶴の汁のほか、珍しい料理をたくさん揃え、引き出物まで用意した信長は家老の柴田勝家に「お前たち、みんなよく働いてくれた。おかげで畿内を静謐にでき、とても嬉しく思っている」と述べ、家臣一人一人に言葉をかけて年来の働きを労った。七〜八〇人ほど居並ぶ家臣の末座には、前田利家もいた。

 利家に引き出物を手渡す時、信長は「若いころ、お前は我がそばに寝かせ、秘蔵したものであったな」と冗談を言い、その髭を引っ張った。

 これを見ていた信長の近習衆は「利家殿のご冥加に我らもあやかりたいものです」と羨ましがり、舞い上がった利家は鶴の汁をついつい食べ過ぎてしまった。おかげでそのあと腹痛になり、「鶴の汁」が苦手になってしまった。

 利家は信長と添い寝する仲で、特に秘蔵されたというのであり、男色を暗示する逸話とされている。

 この『利家夜話』は、利家のもと小姓が、利家から直接聞かされた話を思い起こしながら書いたもので、加賀藩の公的史料のひとつのように大切にされてきた。二次史料とはいえ、成立と記主が明らかで、写本ごとに文章の違いが見られる点に注意さえすれば重要史料として活用できなくもない。本書に見える逸話の多くは利家自身の口から語られたものである。だがこの逸話をあけすけな男色話として受け止めていいのだろうか。原文ではこう書かれてある。

[前略]末座に利家様、御座候えば、御引物下され候刻、利家様、若き時は、信長公傍に寝臥なされ、御秘蔵にて候と、御戯言。御意には、利家其頃まで大髭にて御座候。髭を御取り候て、其方稲生合戦の刻、十六七の頃[後略]

 ここで要所要所を読み直してみよう。まずはこの部分からである。

利家様、若き時は、信長公傍に寝臥なされ、

 確かにここでは若き日の利家の側で信長が寝起きしたと書いてある。少年利家は寝所で横になる信長の姿を間近で見ていた。しかし若武者が主君の寝所にいるのは不自然ではない。

 戦国大名は、領主から集めた子息や親類を小姓として使っていたが、彼らは召し使いであり、旗本の構成員でもあった。利家も「赤母衣衆」として信長に直属する武辺者だったことが知られている。信長は若い時から敵が多く、誘拐・暗殺・拉致には充分警戒しなければならなかった。

 こうした背景を合わせてみると、若き日の利家は親衛隊の一人として、「宿直」の番を勤めていただけであるようにも思える。さて次である。

御秘蔵にて候と、御戯言。

 利家は信長の「御秘蔵」だったとある。だが「御秘蔵」とはどういう意味であろうか。「寝所で眠る大名の側に小姓がいた」という事実に「御秘蔵」の表現を調和的に結びつけたくなる誘惑は抑えがたいが、ここでは別の可能性を考えてみよう。

 傍証材料は『甲陽軍鑑』である。ここでは戦場から離脱する上杉謙信の軍勢が敵軍に追撃された時、寡兵で敵を食い止めた上杉家臣の甘糟近江守がその撤退を悠々と支えたことで、「謙信秘蔵の侍大将の(中でも)甘糟近江守は、かしらなり」と称えられている。謙信秘蔵の侍筆頭だと記されているのである。この用例から考えても「御秘蔵」は、「とっておきの」とか「いざと言う時まで大切にされた」と解釈すべきで、必ずしも男色と結びつくものではない。利家が秘蔵の親衛隊だったからといって、性的な関係が示唆されているとは限らないのだ。では最後の一文も見てみよう。

御意には、利家其頃まで大髭にて御座候。髭を御取り候て、其方稲生合戦の刻、十六七の頃、──。

 違和感を覚えないだろうか。それまで「利家様、若き時」の話をしていたのに、ここで突然「利家其頃まで大髭」と書かれている。高校生ぐらいの少年が大ヒゲだったというのである。

 ここを通りすぎて、次の「髭を御取り候て」だけを取り上げ、利家の髭を引っ張った信長が軽口を叩くシーンを想像すると、「やっぱり二人はそういう仲だったのか」ということになりそうだが、釣られてはならない。

 この「大髭にて」と「髭を御取り候て」に見える「髭」(ヒゲ)の字を、「髭」ではなく「髻」(「たぶさ」、あるいは「もとどり」と読む)と翻刻する資料もある(黒川真道編『日本歴史文庫〈一〇〉』集文館)。字面はよく似ているが、意味はまったく異なる。「髻」とは、頭上で束ねた毛髪(いわゆるマゲ)を前に持っていく髪型のことをいう。

 どうやら筆写の段階で間違えられた可能性が高い。「髭」と「鬘」のくずし字は酷似していて判読が難しい。ここに「髭」のままだとおかしかった文章が「髻」に読み替えることで、明瞭なイメージに置き換わる。

 つまり利家は少年の頃、「おおたぶさ」だったのだが、一六〜七歳でこれを「御取り」になり、月代を入れて元服した──というわけである。信長は、お前は少年だったころからよく我が身を守ってくれたと、その武辺ぶりを褒めたのである。

 ここでは信長が「髭」を手に取ったのではなく、かつて利家が「鬘」を取った話をしていると見るのが正しい解釈となるだろう。

 ここから先の記述は、弘治二年(一五五六)から勃発した信長の家督争いの話になり、一〇代の利家が武功を立て、信長が称賛する展開となっている。

 つまりこの文章は文脈としては、利家の忠勇ぶりを紹介するものであり、二人の関係をニヤニヤ眺めて楽しむものとはなっていない。信長は「お前は元服してからの武功が目覚ましいが、表立って活躍する前から俺の身辺警備を勤めた特別な家臣なのだ」と利家を持ち上げたのであって、「利家、若い頃はいつも俺と一緒に寝たものよな。うふふふ」と髭を引っ張ったのではない。

 二人の関係に男色があった形跡は、ほかの史料にも見受けられない。この俗説はそろそろ見直されるべきだろう。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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