【家紋】秀吉に立ちふさがった男!「柴田勝家」と柴田氏の家紋について
- 2020/01/07
戦国時代の紛争といえば、国同士の領地拡充によるものがイメージされるかと思います。しかしそれだけではなく、同じ家中での家督、あるいは後継者などの相続や主導権に関する争いもまた多かったのです。
肉親同士で抗争することも珍しくなかった戦国の世では、特に代替わりのタイミングや当主が戦や病などで急逝した折などが危険だったことがうかがえます。その主の影響力が強ければ強いほどその火種も大きく、有力な配下が林立した状態ではなおのこと結束が難しくなるのも無理はありません。
そんな争いの最たるもののひとつが、信長死後の織田家の様相ではないでしょうか。周知の通り、信長の事績を継ぐ形で秀吉が天下人となっていきますが、実際にはスムーズに主導権が秀吉に移行していったわけではありません。特に有力とされた織田家臣の間に、やはり軋轢があったのです。
秀吉に立ちふさがった男の名は「柴田勝家」。生粋の武人肌で知られる織田家随一の猛将にして、あくまで織田の血脈を守護するという忠義の将でもありました。今回はそんな、柴田勝家の家紋についてのお話です。
肉親同士で抗争することも珍しくなかった戦国の世では、特に代替わりのタイミングや当主が戦や病などで急逝した折などが危険だったことがうかがえます。その主の影響力が強ければ強いほどその火種も大きく、有力な配下が林立した状態ではなおのこと結束が難しくなるのも無理はありません。
そんな争いの最たるもののひとつが、信長死後の織田家の様相ではないでしょうか。周知の通り、信長の事績を継ぐ形で秀吉が天下人となっていきますが、実際にはスムーズに主導権が秀吉に移行していったわけではありません。特に有力とされた織田家臣の間に、やはり軋轢があったのです。
秀吉に立ちふさがった男の名は「柴田勝家」。生粋の武人肌で知られる織田家随一の猛将にして、あくまで織田の血脈を守護するという忠義の将でもありました。今回はそんな、柴田勝家の家紋についてのお話です。
「柴田 勝家」の出自とは
織田家では最古参クラスの武将というイメージの強い勝家は、信長の父にあたる「織田信秀」の代から仕えていました。生まれは現在の名古屋市あたりとされていますが、明確な出自についてはわかっていません。一説には、斯波氏の一族が越後の柴田城(新発田城)に拠ったことに由来する氏族ともされますが、歴史上知られるようになるのは勝家からのことです。
勝家は主君の信秀没後、信長の弟にあたる「織田信行」の家老として仕えます。信長が織田家を継ぐ頃には織田家中でも重要なポストにいた勝家でしたが、当時は同じ織田家の内紛が絶えず、信長と信行も対立している状態でした。
つまり当初の勝家はいわば信長の敵であり、実際に信行を後継者として擁立するため戦を起こし、敗北したという経緯がありました。勝家を含め、信行らの助命嘆願をしたのは信長・信行実母の「土田御前」だったといいます。
やがて勝家は信長の家臣となり、当初は重要な作戦行動に投入されなかったものの徐々に家中での存在感を高めていきます。武功を積むことで重用され、信長麾下トップクラスの実働部隊長として重用されていくことになります。
本能寺の変で信長が没し、秀吉が急速に台頭しますが、そのとき勝家は北陸方面の攻略で駆けつけることができませんでした。織田家の家督は信長の孫にあたる幼少の「三法師(織田秀信)」が継ぎ、有力武将が後見を務めることになりましたが、勝家は秀吉と対立。
やがて本格化した抗争の末、工作・奮戦も及ばず福井・北ノ庄城にて自刃し妻子・家臣ら八十名が運命を共にしたと伝わっています。
柴田氏の紋について
勝家が用いた家紋は「二雁金(ふたつかりがね)」という、鳥をモチーフにした一見かわいらしいものです。「雁」は越冬のため飛来してくる渡り鳥で、古来日本では狩猟鳥としてもなじみ深い生き物でした。鳥をモチーフにした紋様は、空を飛ぶ様子が矢の勢いを象徴するとして武家で好まれたとされ、雁金紋もとてもポピュラーなものでした。
また、雁は幸運をもたらす鳥という観念もあり、漢の武帝の時代に西域への使者として赴いた蘇武が幽閉され、自身の無事を渡る雁に託して知らせた「雁書」の故事もよく知られています。
「二雁金」は上下に雁金を配置していて、「丸に二つ雁金」の紋などがありますが、これは江戸時代の記録に残っている柴田家の家紋のようです。
勝家の家紋は冒頭の家紋の画像にみえるように、雁金のみで構成されており、上の雁が口を開けているのが特徴です。
これは上が雄、下が雌という一対のものとされ、勝家とその妻「お市の方」を連想させるという人もいます。若干の考察を試みると、一方が口を開けもう一方が閉じた一対のモチーフとして「仁王像」や「狛犬」が思い浮かびます。
開口は「阿(ア)」、閉口を「吽(ウン)」といい、これは口を開けて発声したときに最初に出る音と、口を閉じて音が終わることが由来となっています。
密教ではこれを始まりと終わり、始原と究極、原因と結果等々、表裏一体の真理に通じるものと位置付けています。
柴田氏の二雁金もまさしく「阿吽」の姿になっており、勝家はこのような調和に対しての願いを持っていたのかもしれません。
柴田勝家の人柄と、滅びへの哀惜
武辺一辺倒の猛将という雰囲気の勝家ですが、家臣や妻子に対してはたいへん優しい人物であったことが伝わっています。宣教師として来日し、当時の日本の様子を書き記した「ルイス・フロイス」の人物評は客観的で辛口な面がありますが、彼の勝家評では温かな人柄について触れています。
織田家中随一の猛将であるとしながら、敗戦して自刃する際には離反した家臣を批判せずその前途を喜び、付き従った家臣には哀惜と感謝の念を持った、などと伝えています。
浅井長政が滅ぼされたことで未亡人となったお市の方を正室に迎えたことも有名ですが、この夫婦仲は睦まじいものだったといいます。三人の娘を落ち延びさせたお市は勝家と運命を共にすることを選び、福井では二羽の雁が飛来すると「勝家公とお市さまがお帰りになった」ということもあるそうです。
おわりに
生涯を一軍人として過ごした勝家は、自身が天下を掌握しようという野心を示さなかったといわれています。徹頭徹尾「織田家の将」であった勝家は、秀吉に敗れたもののその生きざまは今なお語り草として歴史に刻まれています。二雁金のかわいらしい姿は、人間味あふれる勝家の愛嬌を示しているかのようで、哀しくもどこか微笑ましくすら感じさせないでしょうか。
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【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『愛知郡史談』 田部井鉚太郎 編 1895 東壁堂
- 『見聞諸家紋』 室町時代 (新日本古典籍データベースより)
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