【家紋】常陸源氏の嫡流にして豊臣六大将の一!「佐竹義宣」と佐竹氏の家紋について
- 2020/02/14
「関八州」といえば、徳川家康が江戸の基盤を築くきっかけとなった関東地方八か国を指し、一般には広大ではあるものの地力・国力に乏しい地域だったイメージがあるかもしれません。実際に江戸の都市構築は干拓と埋め立て、河川改修の歴史と不可分で、大規模な土地改造が必要だったことが知られています。「武蔵の野辺」といえば何もない寂しいところ、最果てにある不毛の地といったニュアンスの定型句であり、当時の人たちにとってはそんな印象があったのでしょう。
しかし、東国には古くより多くの氏族が群雄割拠して数百年に及ぶ戦いを繰り広げていました。古代には強力な先住民族である「蝦夷」が大和朝廷の進出を防ぎ、平安時代中期には「平将門」が「新皇」を称して反乱。東国は常に激戦の最前線であった歴史をもち、武士の発生や日本刀の誕生もこの地域での戦闘が大きな因子になっているとすらいわれます。
また、雪深い東北には「奥州藤原氏」が京の都を凌駕するといわれた一大文化を反映させました。戦国時代には「独眼竜」の異名をとる「伊達政宗」が台頭、東国は東北からの脅威にも備えるべく地政学的な重要性を背負う土地でもありました。
そんな東国の氏族で時流をつかみ、豊臣政権下で功を成したのが常陸の「佐竹義宣」でした。多くの武将が豊臣への臣従か抗戦という二者択一を迫られた状況下、果敢な決断で一時期東国の覇者となった佐竹氏。今回はそんな、佐竹義宣とその一族が用いた家紋についてのお話です。
しかし、東国には古くより多くの氏族が群雄割拠して数百年に及ぶ戦いを繰り広げていました。古代には強力な先住民族である「蝦夷」が大和朝廷の進出を防ぎ、平安時代中期には「平将門」が「新皇」を称して反乱。東国は常に激戦の最前線であった歴史をもち、武士の発生や日本刀の誕生もこの地域での戦闘が大きな因子になっているとすらいわれます。
また、雪深い東北には「奥州藤原氏」が京の都を凌駕するといわれた一大文化を反映させました。戦国時代には「独眼竜」の異名をとる「伊達政宗」が台頭、東国は東北からの脅威にも備えるべく地政学的な重要性を背負う土地でもありました。
そんな東国の氏族で時流をつかみ、豊臣政権下で功を成したのが常陸の「佐竹義宣」でした。多くの武将が豊臣への臣従か抗戦という二者択一を迫られた状況下、果敢な決断で一時期東国の覇者となった佐竹氏。今回はそんな、佐竹義宣とその一族が用いた家紋についてのお話です。
「佐竹義宣」の出自とは
佐竹氏は常陸(現在の茨城県あたり)の守護・戦国大名で、平安時代後期の武将「新羅三郎義光」の流れをくむ氏族とされています。常陸国司であった義光の孫にあたる「源昌義」が、久慈郡佐竹郷に土着したことから地名を氏族の公称としたのが始まりです。
非常に長い歴史をもつ氏族であり、源氏でありながら、治承・寿永の乱(1180~85)の際には平氏方に合力したり、鎌倉幕府滅亡後は足利将軍家と関係を深めたりと紆余曲折を経ながら家流を維持してきました。
戦国期の佐竹義宣は佐竹氏19代目の当主であり、その時代には周辺氏族との抗争が続きながら、北から伊達氏、南から後北条氏という強力な武将の圧力下にあるという難しい舵取りが求められました。
やがて秀吉の小田原攻め(1590)の際には、出陣命令を受けて臣従か拒否かを迫られますが、義宣は秀吉に合力することを選択。後北条氏の城を陥落させつつ小田原に部隊を進め、秀吉に臣下の礼をとりその傘下に加わります。
義宣は石田三成が指揮したことで有名な忍城攻めに参陣、小田原攻略戦後は常陸国と下野国(現在の栃木県あたり)の一部を知行として安堵されます。
豊臣家中で存在感を発揮した義宣は、やがて徳川・前田・島津・毛利・上杉と並ぶ「豊臣六大将」と称されるようになります。しかし関ケ原の戦い(1600)において義宣は、東西どちらの軍につくかという立場を明確にしませんでした。
家中の意思統一ができなかったとも上杉氏との密約があったともいわれますが、徳川方が勝利すると家康と秀忠に戦勝祝いの使者を派遣し、後に家康に直接の謝罪を行ったといいます。
家康は義宣を「律義者」と評したと伝わりますが、多分に困惑を含んだものだったようで国替えの命令が出た時点では行先も石高も明らかになっていませんでした。
結果として常陸54万石から秋田20万石への減転封となりましたが、具体的な石高が決定したのは次代の「佐竹義隆」の代でした。義宣は大坂冬の陣(1614)では徳川方として参陣、感状を受けた12名のうち、5名が佐竹家中という奮戦ぶりだったといいます。
出羽国久保田藩(秋田藩)の初代藩主となった義宣は、戦場ではなく江戸神田屋敷にて没します。享年は64歳だったと伝えられています。
佐竹氏の紋について
近世大名となった佐竹氏には、「御当家七ツ御紋」という七種類の紋が伝えられました。代表的なものとして、佐竹義宣が用いたという、伝統的な「佐竹扇」を取り上げましょう。これは文字通り扇子をデザインした家紋で、「五本骨扇に月丸」と称されます。一見すると開いた扇に日の丸が描かれているかのようですが、これは太陽ではなく月を表していると伝えられます。
古来「日輪」と「月輪(がちりん)」は一対のものであり、「陽と陰」を表しています。また、満ちた月の姿から満願成就への願いが込められたともいいます。
「扇」は単に風を送って涼をとるためだけのものではなく、神霊を揺らして神を招く聖なる器具でもありました。巫女が神楽を舞う際に用いる「檜扇」や、戦の采配を振るう「軍扇」など、重要な祭祀や指揮にも用いられたアイテムでした。
縁起物のような雰囲気ではありますが、これも武家に相応しいモチーフであるといえるでしょう。
このほか、江戸幕府が作成した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』に、五七桐をアレンジした「佐竹桐」もあります。江戸時代に使われたものと思われますが、詳細はわかっていません。
おわりに
義宣は豊臣から徳川に権力の座が移る過程で、非常に難しい舵取りを危ういバランスで成功させたといえるでしょう。一次史料では確認できないものの、石田三成に恩があった義宣は三成が豊臣家中の同僚たちから襲撃された際、機転を利かせて救出したという言い伝えがあります。史実かどうかはともかくとして、そんな伝説が生まれるような義理堅さが義宣にはあったのでしょう。
家康が「律義者」と評して処断を悩んだのも、そんな人柄の証拠かもしれませんね。
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【主な参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『新撰秋田県史談』 誉田義英 1894 秋穂堂
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
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