“三成に過ぎたるもの”と称された猛将!「島左近」の家紋とは?
- 2022/06/10
どれだけすぐれた武将であっても、たった一人で戦国の世を生き抜くことなどできないのは自明の理です。古今の名将には必ずそれを補佐する優秀な家臣団があり、いわばチームとしての力が問われたといえるでしょう。そうしたことから武将は自身に足りない部分を補う、最適な人材を確保することに心を砕きました。
そのうち有名なエピソードとして、石田三成が召し抱えた島左近(しま さこん)の名が想起されます。石田三成は実務官僚としての能力を評価されていましたが、戦下手というイメージが払拭されません。本当に戦闘における指揮能力が劣っていたかどうかの判断は難しいとしても、実戦経験が少ないことは明白といえるでしょう。そんな三成が欲した人材が、猛将として名を馳せた島左近だったのです。
俗に「4万石の禄高から半分を割き、三顧の礼をもって左近を迎えた」ともいわれますが、史実はさておき、そうした伝説が生まれるほどの待遇と熱意を感じさせる故事といえます。後に「治部少(三成)に過ぎたるもの」として佐和山城とともに名を挙げられた島左近。今回はそんな猛将がいったいどのような家紋を使用していたのかを探ってみましょう。
そのうち有名なエピソードとして、石田三成が召し抱えた島左近(しま さこん)の名が想起されます。石田三成は実務官僚としての能力を評価されていましたが、戦下手というイメージが払拭されません。本当に戦闘における指揮能力が劣っていたかどうかの判断は難しいとしても、実戦経験が少ないことは明白といえるでしょう。そんな三成が欲した人材が、猛将として名を馳せた島左近だったのです。
俗に「4万石の禄高から半分を割き、三顧の礼をもって左近を迎えた」ともいわれますが、史実はさておき、そうした伝説が生まれるほどの待遇と熱意を感じさせる故事といえます。後に「治部少(三成)に過ぎたるもの」として佐和山城とともに名を挙げられた島左近。今回はそんな猛将がいったいどのような家紋を使用していたのかを探ってみましょう。
「島左近」の出自とは
島左近は実名を「清興(きよおき)」といい、従来は「勝猛(かつたけ)」などとされてきましたが自筆の署名書状が見つかったことから前者が正確とされています。知名度に反して来歴・事績ともに謎の多い人物で、出身地も対馬・近江・大和などいくつかの説がありました。しかし現在の奈良県生駒郡平群町あたりの在地領主に島(嶋)氏があり、のちに大和の筒井順慶に仕えていることからも左近の出身は大和である可能性が高いとするのが通説のようです。
天正16年(1588)に筒井家を離れた左近はその後信長の娘婿でもある蒲生氏郷に仕えたとされていますが、史料によっては秀吉の弟である豊臣秀長に仕官したともいい、定かではありません。
左近が三成に召し抱えられた正確な時期は分かっていませんが、少なくとも天正18年(1590)の小田原征伐の頃にはその配下となっていたと考えられ、軍使としていくつかの重要な交渉任務に就いた形跡がみられます。
三成に従って朝鮮出兵にも従軍した左近でしたが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで西軍として壮絶な討ち死にを遂げたとされています。しかしこの最期にも不明な点が多く、黒田長政配下の部隊と交戦したと思われるものの首級は上げられておらず、彼を討ち取った武将にも諸説あるようです。享年は数え年で61歳だったといいます。
島左近の紋について
左近が用いた家紋については、結論からいうと正確なことは分かっていません。戦国当時の武将にはよくあることとされていますが、実は「関ヶ原合戦図屏風」には「三葉柏(みつばがしわ)」の旗紋が丁寧に描かれています。この時の様子には興味深い伝承があり、後に関ケ原合戦に従軍して左近の部隊と戦ったという老将たちがその軍装を語ったところ、皆が皆まったく異なる記憶だったといいます。
これには左近と対峙した際、その鬼気迫る戦いぶりから恐怖のあまり詳細を覚えていないためという説明がされていますが、出典は19世紀初めの著者不明の書物とされています。
いずれにせよ、後世にこうした伝説が語られることからも、やはり左近は特別な畏敬の念をもって捉えられてきた武将の一人だったといえるでしょう。左近が三葉柏の家紋を用いたかどうかはともかくとして、黒田長政の命で制作された関ヶ原合戦図屏風に、左近の旗紋などが詳細に描かれている点が興味を引きます。
旗指物の珍しい神号について
家紋の話からは少し逸れますが、同じく関ヶ原合戦図屏風に描かれた左近の旗指物について触れておきましょう。そこには「八幡大菩薩」「鬼子母善神十羅刹女」「鎮宅霊符神」の三柱の神名が確認できます。そして陣旗にはそれらに加えて「南無妙法蓮華経」の小旗が括りつけられています。
前記のうち八幡神は武家の崇敬が篤いことで知られていますが、他の二柱は指物に記される神格としては非常に珍しいとされています。しかしこれらを紐解くと、鬼子母神も十羅刹女も法華経を守護する鬼神であることに気付きます。
また、鎮宅霊符神とは道教や陰陽道で高位に位置付けられている神で、いわゆる北辰妙見菩薩にあたるものです。妙見菩薩も法華経の守護者であることから、いずれも法華経を護持するという願いの込められたものと推測することができるでしょう。
左近の真意までは分かりませんが、そうした祈りに鬼神の名を用いるあたりが猛将たる由縁なのかもしれませんね。
おわりに
勇将・猛将の伝説は枚挙に暇のない戦国時代ですが、その終焉において鮮烈に散った島左近。石田三成が自身の禄の半分を割いてまでスカウトしたという伝説が生まれるほどに、智勇を兼ね備えた魅力ある武将だったのだと想像しますね。家紋が定かではない理由としても、それが記憶に残らないほどの畏怖を与えたという伝承はまさに左近の面目躍如といったところでしょうか。
もっとくわしく
【主な参考文献】
- 大野信長『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』(学研、2009年)
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』(KKベストセラーズ、2014年)
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)(吉川弘文館)
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版)(講談社)
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