「どうする家康」徳川家康は秀吉に追い詰められた織田信雄になぜ味方したのか?

 大河ドラマ「どうする家康」第31話は「史上最大の決戦」。天下統一への歩みを進める羽柴秀吉と、徳川家康がいよいよ激突する、そうした様が描かれました。ではなぜ両雄(秀吉と家康)は戦をすることになったのでしょうか。『徳川実紀』や『三河物語』などから、経緯を見ていきたいと思います。天正10年(1582)6月の本能寺の変後、羽柴秀吉は、明智光秀を討ち、織田家宿老の柴田勝家を滅亡に追い込み、その勢いはいよいよ増していました。

 『徳川実紀』によると、そうした中にあって、秀吉は、織田信長の子(次男)として諸将から心を寄せられている織田信雄のことが念頭にあったようです。「先ずは、この人(信雄)を傾けて、天下統一を急ぎたい」と思い、一計を案じたとのこと。秀吉は、信雄の重臣を篤くもてなしたと言います。そのことを知った信雄は、家臣を籠絡するとはけしからん、我を傾けようとする策謀かと激怒。親秀吉派の重臣3人を殺してしまうのです。

 「讒言を信じ、良臣を殺害した」ということで、待っていましたとばかりに、秀吉は信雄を討伐する準備を始めます。織田家の旧臣は、多くは秀吉に味方したと『徳川実紀』にはあります。同書によると、秀吉は、家康にも使者を遣わし「加勢すれば、美濃・尾張国を与えよう」と勧誘したようです。 ところが家康は「右府(織田信長)以来の盟約を変えることはできない」として、秀吉の使者を返したとのこと。

 一方、『三河物語』には、天正12年(1584)、秀吉が信雄に腹を切らせようとしたと書いてあります。そこで、信雄は家康に支援を要請。家康は「秀吉は酷いことを言う。かつて、信雄様を秀吉が盛り立てようと言っていたので、世は平和になると思っていた。しかし、信雄様に腹を切らせようとしていると聞く。是非ともお助け致そう」と信雄を支援することを約束するのでした。

 さて、『徳川実紀』には、誰も味方してくれないことに驚いた信雄が、浜松の家康のもとに使者を遣わし、救いを請うたとあります。家康は「右府との旧好がある。どうして、(信雄を)見捨てることができよう」と信雄に加勢し、秀吉に対抗することを決意。『徳川実紀』は、信長との関係を忘れず、信雄に味方する、義理堅い家康の姿を描いています。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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