「どうする家康」織田信長の安土における徳川家康接待はどのようなものだったのか?
- 2023/07/18
大河ドラマ「どうする家康」第27話は「安土城の決闘」。織田信長が、安土城にて、徳川家康や穴山梅雪らをもてなす様が描かれました。天正10年(1582)5月15日、徳川家康は安土に到着します。安土到着までも、その途上において、家康一行は、信長家臣からの手厚いもてなしを受けていました。安土に到着してから、家康をもてなしたのは、織田重臣の明智光秀でした。
『信長公記』(信長家臣・太田牛一が記した信長の一代記)によると、光秀の家康の接待振りは素晴らしいもので、珍しい品々を事前に取り揃えて、家康をもてなしたようです。時代劇などにおいては、この時の光秀の接待に粗相があり、光秀が信長に暴行を受けるシーンが描かれています。しかし、『信長公記』にはそのようなことは記されていません。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)にも、光秀の接待については触れられていません。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)にも、そうした記述はありません。
ただ、信長自らが配膳するなど手厚いもてなしを受けたことだけが記されています。信長の家康接待については『信長公記』に詳しいです。「道中の疲れを少しでもとって欲しい」ということで、丹波猿楽の梅若大夫に能を演じさせたりもしています。が、梅若大夫のその日の能が不出来だったということで、信長は梅若に激怒したようです。叱責しただけで、信長が梅若に暴力を振るった等とは記されていません。
叱ったとは言え、信長は後でちゃんと、梅若に褒美として「金子10枚」を与えています。梅若大夫を叱ったことが載るくらいですから、もし信長が光秀に激怒したならば『信長公記』に記されるはずです。家康接待における信長の光秀への激怒というのは、後世の創作と推測されます。また『信長公記』を見ていると、信長は人(家臣など)に簡単に暴力を振るうような人物ではないことが分かります。
光秀は、毛利攻めを行う羽柴秀吉の援軍として、西国に出兵することになりますが、それは家康接待の粗相によるものとは考えられません。光秀は、家康の接待の仕事をしっかりこなしました。何より、信長は、武将としての光秀に信を置いていました。よって、中国出陣を命じたのです。さて、5月20日。家康の饗応の場で、信長は自らお膳を据えています。家康も信長の振る舞いに恐縮・感激したと思われます。食事の後は、家康らを安土城に招待。再び、篤くもてなしたのでした。
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