「どうする家康」『徳川実紀』『三河物語』に見る小山評定

 大河ドラマ「どうする家康」第42話は「天下分け目」。有名な小山会議が描かれました。

 豊臣重臣・徳川家康は、上洛命令に応じない会津の上杉景勝征伐のため、大坂を発します(1600年6月16日)。そして7月2日には江戸城に入るのです。家康には豊臣系諸将(福島正則・池田輝政・山内一豊・黒田長政・浅野幸長ほか)も従っていました。会津征伐は、謀反の疑いがある上杉氏を成敗する豊臣政権の「公戦」だったからです。

 『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、7月19日、江戸中納言(家康の子息・徳川秀忠)が江戸を進発したとあります(秀忠は宇都宮に向かいます)。家康自身は、7月21日に出馬、同月24日には小山(栃木県小山市)に陣を据えました(『徳川実紀』)。これは、源頼朝が常陸の佐竹氏を攻めた(1180年11月)古例に倣ったとされます。

※参考:会津征伐における家康の動き(戦ヒス編集部作成)
※参考:会津征伐における家康の動き(戦ヒス編集部作成)

 家康が小山に着陣する前には、石田三成方の「西軍」が上方で蜂起したとの報は、家康の耳に入っていました。よって、家康は豊臣系諸将と、会津征伐を行うか否かを小山において協議することになります。これが有名な「小山評定」です。

 家康は諸将を本陣(小山)に召し集め、徳川家臣(井伊直政・本多忠勝)を介して「上方で逆徒が蜂起したこと。諸将の妻子は大坂にあるであろうから、それを案じ、石田方に加勢しても、恨みには思わないこと」などを告げます。

 その事を告げられた諸将は愕然とし、暫くは誰も一言も発しなかったとのこと。そうした時に、真っ先に進み出て、発言したのが、福島正則でした。

正則:「私はこのような時に、妻子に惹かれ、武士の道を踏み間違うことはない。内府(家康)のため、身命をなげうち、お味方仕るべし」

と断言したのです。

 正則の発言があってからは、黒田・浅野・細川・池田らの諸将も、次々に家康に味方する旨を告げたとのこと。そして、会津征伐は中止とし、上方征伐のため、西上することが決定するのです。

 7月26日、諸将は小山を立ち、西に向かいます。家康は8月4日まで小山にいて、翌日、江戸に到着しています。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、本多忠勝と井伊直政が上方征伐よりも、会津征伐を優先するよう家康に進言したとあります。

 しかし、それを聞いた家康は

「言語道断。さして重要ではないことに拘っていてどうする。早々に上方にのぼれ」

と怒ったそうです。西軍との決戦の時は、刻一刻と近付いていました。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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