「どうする家康」『改正三河後風土記』が描く築山殿と松平信康

 大河ドラマ「どうする家康」の第24話は「築山へ集え」で、築山殿(家康の正室)の戦のない平和な世を作りたいとの想いが披瀝された回でした。

 さて『改正三河後風土記』という書物があります。徳川氏の家臣・平岩親吉が慶長15年(1610)に記したとされる『三河後風土記』を、成島司直(1778〜1862年。『徳川実紀』の編者)が徳川幕府の命令により改撰したものが『改正三河後風土記』です。

 同書は徳川家創業について書かれた歴史書ではありますが、偽書説もあり、信憑性は低い書物ではあります。しかし、そこには、徳川家康の妻・築山殿や、その子・信康についての興味深い逸話が記されてもいるのです。先ず、同書は築山殿のことを「凶悍」と断じています。凶悍とは「心が悪く、たけだけしい。猛悪」という意味です。

 大河ドラマ「どうする家康」では、築山殿を女優の有村架純さんが演じています。おっとりとした「平和主義者」の築山殿として同ドラマでは描かれていますが、それとは真逆の評価です。また、嫉妬深い性格であったとも書かれています。家康が浜松にいて、側室に男子・女子を産ませたことを妬ましく感じ「我こそは実の妻にて御家督三郎(信康)の母」から始まる恨みの手紙を岡崎から家康に送ったとも記されています。

 そうした有様であったので、家康も築山殿を疎ましく思い、交流は途絶えていったとのこと。築山殿の鬱憤は溜まりに溜まり、その矛先は、我が子・信康とその妻の徳姫(織田信長の娘)に向かったとあります。仲睦まじい信康・徳姫夫婦の仲を裂こうとしたというのです。夫婦の間に立ち入って、あれこれと「讒言」したようなのです。

 徳姫は信康の子を産みますが、いずれも女子でしたので、築山殿は信康に側室を持ち、嫡男をあげるよう勧めたと言われます。信康は母の助言に納得し、宮仕えの女房を寵愛しました。築山殿はそれだけでは飽き足らず、信康に新たな女性を勧めます。それは、甲斐国の武田の元家臣(日向守昌時)の娘でした。その娘は美女であったようで、信康は虜となり、毎夜、通ったとあります。当然、徳姫は寂しい日々を過ごすことになります。徳姫の侍女・小侍従は、信康が他の女性のもとに通っていることを徳姫に告げたので、嫉妬心にかられます。

 「徳姫が信康のことを恨んでいる。女性のもとに通っていることを告げ口したのは侍女の小侍従」との噂を聞いた信康は、烈火の如く怒り、徳姫のもとに乗り込んでくるのです。そして、徳姫の見ている前で、小侍従の髪を掴み、腰刀を抜いて、切り捨ててしまうのでした。徳姫は余りの恐怖に身動きができず、涙を流すのみだったと同書には記されています。『三河後風土記』は、築山殿を悪女、信康を凶暴に描いているのです。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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