「どうする家康」『徳川実紀』が描く大岡弥四郎事件 岡崎クーデターはなぜ失敗したのか?

大岡弥四郎は武田に内通し、岡崎城奪取を考えていた。上記画像は1993年に再建された岡崎城大手門。
大岡弥四郎は武田に内通し、岡崎城奪取を考えていた。上記画像は1993年に再建された岡崎城大手門。

 大河ドラマ「どうする家康」第20話は「岡崎クーデター」。同回では、徳川家臣の大岡弥四郎が、松平信康(徳川家康の子)と瀬名(家康の妻)を討ち、岡崎を奪う計画を立てるも露見。捕らわれて、計画は失敗する様が描かれていました。大岡弥四郎は『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、初めは「中間」として家康に仕えていたようです。

 が、算術にも長け、何事にも目が行き届く性質であったので、租税に関連する職に取り立てられます。そこでも功績を立てたので、今度は、三河国奥郡二十余村の「代官」に任命。浜松に居ながらも、時々は岡崎にも行き、松平信康(家康の子。岡崎城主)の御用を こなすほど重用されていました。出世頭となった弥四郎ですが、同書によると、次第に奢るようになっていったようです。

 功績がある武士でも弥四郎の意向に叶わなければ悪し様にされ、意向にそえば取りなされるという有様だったと同書は記します。そのような状況でしたので、多くの徳川家臣は、弥四郎を恨んでいたとのこと。家康の家臣・近藤某が領地を加増された時、弥四郎はこれを自らの取りなしによるものだと主張。近藤は弥四郎に追従してまでも加増されたくないと返上を申し出ます。これにより、家康は弥四郎の悪行を知ることになるのです。弥四郎は捕縛され、家財を没収されたのでした。その時、弥四郎が甲斐国(武田家)とやり取りしていたことが明らかとなります。

 その書状によると、弥四郎は、甲斐の武田勝頼と組んで、岡崎城を奪おうとしていたのです。勝頼は弥四郎からの書状に喜び、計画が成功した暁には「恩賞は望みのまま」として、起請文(誓約書)まで取り交わしたようです。弥四郎は同志とともに勝頼に出馬を勧め、武田軍が出張ってきたら、自分たちは岡崎城に侵入し、信康を殺害。その上に城に籠り、人質をとれば、三河・遠江国の武士も自らに靡くと考えていたようです。窮地に立った家康は浜松から逃亡。これにより、勝頼は無血で、三河・遠江両国を入手できるというのが、弥四郎の構想だったのです。

 ところが、弥四郎の同志であった山田八蔵は、弥四郎を裏切り、信康に謀反情報を伝達。これによって、弥四郎の野望は潰えたのでした。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、弥四郎の謀反を「栄華に奢った」ことによると推測しています。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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