なぜ家康は自分の妻子である築山殿と信康を死に追いやったのか?

 天正7年(1579)、徳川家康は嫡男信康とその母で家康正室の築山殿を死に追いやっています。「築山殿事件」と呼ばれていますが、家康はなぜ正室と嫡男を死に追いやる必要があったのでしょうか。

 通説では武田氏との内通を疑った織田信長の指示で築山殿・信康は亡くなりました。しかし、以前から通説に疑問を示す研究があり、近年では家康の指示とする見解が示されるようになりました。

 信康・築山殿を排除した原因は、甲斐武田氏に関わる外交路線をめぐって、家康と築山殿・信康との間で対立したためとみられています。そこで本記事では築山殿事件の背景について深掘りしたいと思います。

なお、築山殿と結婚当時の家康は「松平元信」と名乗っていましたが、本記事では「徳川家康」と表記を統一します。また、「築山殿事件」についても「築山殿・信康事件」や「信康事件」など書籍によって様々な表記みられますが、本記事では「築山殿事件」と表記します。


今川氏からの独立と、武田氏との対立

 家康と築山殿は弘治3年(1557)に結婚しました。築山殿の生年は不詳ですが、家康と同年齢もしくは1、2歳程度年上と推定されています。

 2人の間には、永禄2年(1559)に信康が、同3年(1560)に亀姫が誕生。しかし亀姫誕生の年には、桶狭間の戦いで今川義元が信長に敗れて命を落とすという、非常事態が起きました。

 義元の急死の報告に今川家中は動揺、家督を継いだ今川氏真は領国内の動揺を鎮静化することができませんでした。当初、家康は氏真に従っていましたが、桶狭間合戦の翌年には今川氏から独立しています。そして信長と同盟を結び、信長の娘である五徳が家康の嫡男信康に輿入れしました。

 このような今川領国の混乱を領国拡大の好機と捉えたのが武田信玄です。信玄は今川氏との同盟を破棄し、今川氏と敵対する織田・徳川両氏と同盟を結びます。今川領である駿河を武田氏が、遠江を徳川氏が攻め取ることで交渉がまとまりました。

 信玄と家康は永禄11年(1568)12月に同時に今川領国に侵攻を開始します。しかし信玄は駿河侵攻と同時に別働隊を遠江国に侵攻させたことで徳川氏との関係が悪化。家康は信玄が約束を反故にしたと認識し、信玄を警戒するようになり、元亀元年(1570)、家康は越後の上杉謙信と同盟を結び、武田氏との同盟を解消しました。

 これに対し、信玄が信長に抗議をしますが、信長は家康に味方したために織田氏と武田氏の関係も悪化する事態となります。このような状況を受けて、武田領国との境目に位置する織田・徳川方の美濃国・三河国・遠江国の国人衆の一部が、武田方に寝返る事態となり、もはや、「織田・徳川 vs 武田」という軍事衝突は避けられない状況になったのです。

大岡弥四郎事件と徳川家中の内部対立

 元亀3年(1572)10月、ついに信玄は遠江国に出陣し、徳川領国に侵攻を始めます。

 織田・徳川連合軍は遠江国三方ヶ原にて武田軍と合戦に及びましたが、大敗を喫しました。武田軍はそのまま三河国にも侵攻し徳川領国を席巻しました。しかし、ここで家康にとって幸運が訪れます。年が明けて元亀4年(1573)年、周知のとおり信玄の病気が悪化したため、武田軍は撤退、間もなく信玄は亡くなってしまうのです。

 そして武田家の家督を継承したのが四男の武田勝頼です。勝頼は信玄の外交路線を継続し、織田・徳川との戦いを継続します。家督を継いだ翌年の天正2年(1574)、勝頼は織田方の明智城と徳川方の高天神城等を落とし、武田氏の領土をさらに拡大しました。

 勝頼の攻勢に織田・徳川方は劣勢でした。天正3年(1575)3月、勝頼は奥三河に侵攻します。ここで、徳川氏内部で「大岡弥四郎事件」が起きました。

 大岡弥四郎事件とは、信康の家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎ら家臣一派が、武田氏に内通した事件です。勝頼に内通した大岡弥四郎は三河に侵攻してきた武田氏の軍勢を岡崎城に引き入れようと計画していましたが、露見したことで未然に塞がれ、家康によって大岡弥四郎ら家臣一派は処刑されました。

 この事件は、信康の家臣である大岡弥四郎らが計画したことから、信康や築山殿の関与を疑う研究があります。事件当時の徳川氏は、武田氏の猛攻によって領国の危機に瀕していましたが、その原因は親織田・対武田路線を推進した家康とその周辺の家臣にあったのです。

 こうした背景から、家康の外交路線に反発を示す家臣がいたとしてもおかしくはありません。それが、信康周辺の家臣(大岡弥四郎など)であり、信康や築山殿も同意していた、とみられています。

 この動きに、家康は大岡弥四郎を処刑することで従来の路線維持を鮮明にしました。そして、信長の援軍を得た家康は長篠の合戦で勝利し、領国の危機を脱します。

 しかし、その後は一進一退の状況が続きました。長篠の合戦の翌年に、家康は武田領の駿河に侵攻しますが目立った戦果はありませんでした。徳川氏単独では、武田氏に対抗するのは難しい状況だったと思われます。

 信長も畿内情勢に対応する必要があったため、武田氏の対応に専念するのは難しい状況でした。そのため、徳川氏と武田氏の戦争状態は長期化しました。これにより両氏の領国の境目を中心に政情が不安定な状態が続きました。

 このような状況のため、徳川家中内部は浜松城の家康を中心とする「武田氏との戦争推進派」と、岡崎城の信康を中心とした「武田氏との戦争慎重派」で対立が再燃したとする見解が、近年の研究では提示されています。

北条氏との同盟と築山殿・信康粛清の決行

 このような不安定な情勢のなか、天正6年(1578)、上杉謙信が急死したことによって、上杉領国内で謙信の後継をめぐる「御館の乱」と呼ばれる内紛が発生。この内紛が思わぬかたちで、家康に影響を及ぼしました。

 武田勝頼は、北条氏から上杉氏に養子に入っていた上杉景虎(北条氏政弟)と上杉景勝との和睦を仲介しましたが、最終的には景勝に味方したのです。その結果、天正7年(1579)3月24日、上杉景虎は自害に追い込まれました。

 これに怒った北条氏は同年7月下旬、武田氏との同盟を解消する動きをとりました。そして北条氏は徳川氏との同盟を模索します。

 すでに同年の正月から北条氏は徳川氏と接触を図っており、9月4日に同盟が成立しました。「御館の乱」とは無関係であった家康からすれば、思わぬかたちで北条氏という味方を得る結果になりました。

 北条氏との同盟交渉が行われている最中の8月3日、家康は浜松城から信康がいる岡崎城に移ります。北条氏との同盟交渉が成立すると見通した家康は、おそらく信康に最後の説得をしたものと思われます。そして、翌日信康を岡崎城から追い出し、大浜や堀江城などに身柄を移された後、9月12日、二俣城において家康の命令により信康は自害しました。

 なお築山殿についても、信康追放と同時に幽閉されたとみられ、8月29日に亡くなりました。築山殿については、命まで取るつもりはなく、幽閉のみに留めるつもりであったが、築山殿がそのような自身の将来を屈辱と認識し、自ら命を絶ったのではないか、と推測する見解があります。

織田信長への事前報告

 ところで家康は信康粛清前の7月、家老の酒井忠次を使者として織田信長に派遣しています。

これに関連する史料として

①『当代記』
②『安土日記』
③堀秀政(信長側近)に宛てた家康書状

があります。

 これらの史料から、事前に家康が信康の追放を信長に知らせたこと、追放について信長から了解を得ていたことが、近年の研究では明らかになっています。

 当時の家康は信長に従属する立場であったと考えられています。また、信康は信長の娘婿になります。このようなことから、家康は事前に信長の了解や支持を取り付けたものと思われます。つまり、家康による築山殿や信康の粛清を信長は許可したということになります。

 なお、信長は「反武田」の立場で一貫していました。このため、家康の申し入れに反対する理由はありませんでした。むしろ、「親武田」の信康を放置していると、織田氏との関係悪化につながる恐れもありました。

おわりに

 ここまでをふまえると、築山殿事件の背景には武田氏との外交をめぐって、家康派(反武田)と信康派(親武田)による内部対立が指摘できるかと思います。

 この内部対立が表面化したのが、「大岡弥四郎事件」とみられます。この事件によって、家康は武田強硬路線の継続を鮮明にします。しかし長篠の合戦には勝利をしましたが、その後は一進一退が続き、戦争状態が長期化しました。このため、家康派(反武田)と信康派(親武田)の対立が再燃しました。

 このような不安定な情勢が続いていましたが、「御館の乱」をきっかけに北条氏との同盟が成立し、反武田で北条氏と共闘することが可能となりました。北条氏という味方を得たことから、家康は言うことに従わない築山殿と信康の粛清を決定しました。

 家康は事前に信長の了解を得たうえで粛清を決行しました。このため、この粛清は信長ではなく、家康主導で決行されたと考えられます。最後の説得を試みている形跡もあることから、家康としては苦渋の決断だったのかもしれません。

 しかし粛清によって、徳川氏の対武田の外交方針は武田強硬路線でまとまることになりました。なお、信康粛清から3年後、織田・徳川・北条の三氏は同時に武田領国に攻め込んで、武田氏を滅亡に追い込んでいます。


【主な参考文献】
  • 新行紀一「信康・築山殿事件」(『新編岡崎市史』2中世所収、1989年)
  • 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
  • 黒田基樹 『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社2022年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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