「築山殿(瀬名姫)」徳川家康の妻(正室)…悪女と伝わる彼女はどんな思いで生きたのか?

後世に「悪女」として語り継がれている築山殿(瀬名姫)。実際にどうだったのかは別として、今川一門の娘に生まれ、徳川家康の正室となった彼女はなぜそのように語られていったのでしょうか。そこには家康を人質として利用した今川家、そして家康の一族・松平家の歴史が関わっていました。今回はそんな築山殿の生涯についてみていきたいと思います。

今川と井伊の血脈をもつ娘

築山殿の父は今川家一門である瀬名家の関口氏純(または瀬名義広)、母は遠江国衆の井伊直平の娘とされています。

築山殿の母は井伊直平が今川氏に臣従したとき、今川義元に人質として差し出され、義元の側室になっていたとも、義元の養妹ともいいます。井伊氏は過去に何度も今川氏と敵対したり臣従したりを繰り返してきました。このため、今川義元は井伊氏との結びつきを強めて懐柔させるため、養妹でもある直平の娘を一門の関口氏純に嫁がせたといいます。

関口氏純と井伊直平の娘との間に産まれたのが築山殿なのであり、彼女は今川義元にとっては姪にあたる人物ということになります。

築山殿の略系図
築山殿の略系図

築山殿の幼名は「おふく」または「せな」といい、のちに結婚するまでは "瀬名姫"と呼ばれていました。なお、彼女の誕生年は明らかにされていません。のちに夫となる家康と同じか、家康より3・4つ上等との見方があるようですね。家康と同じ年だとすれば、天文11年(1542)生まれとなります。

天文18年(1549)にはその家康(幼名:竹千代)が、今川の庇護下にあった三河松平氏から人質として駿府に送られてきます。当時の家康はわずか8歳でした。

家康との結婚、出産

築山殿が駿府で家康に出会ったことはまさに運命でした。時が過ぎて弘治3年(1557)、二人は結婚することになったのです。

この結婚は義元の意向によるもの、つまり、井伊氏のときと同じように松平一族の力を利用するための政略結婚でした。家康がやむなく結婚したとか、築山殿の美貌を見初めた家康が義元に願い出て結婚に至ったなど、諸説があります。

以後、築山殿は "駿河御前" と呼ばれるようになります。

悪女か?

彼女は義元の姪であることを鼻にかけ、人質であった家康を見下していたといいます。さらには「倣慢」で「嫉妬深い」性格であったとか…。その根拠としては、以下、後世の編纂物にそうした性格が記してあり、酷評されているからです。

生得悪質、嫉妬深き御人也。
『玉輿記』より引用

無数の悪質、嫉妬深き婦人也。
『『柳営婦人伝』』より引用

其心、偏僻邪倭にして嫉妬の害甚し。
『武徳編年集成』より引用

さんざんに書かれていますが、後世にかかれたものなので信憑性はあまりないかもしれません。のちに徳川の世を作った家康にとって、今川方の人物だった築山殿はよく思われていなかった可能性もあります。

結婚後の永禄2年(1559)に長男・松平信康、その翌年には長女・亀姫(奥平信昌室)と立て続けに2人の子にめぐまれています。しかし、桶狭間の戦い(1560)で伯父の今川義元が討たれると、彼女の人生に暗雲がたちこめるようになっていきます。

桶狭間での敗戦で今川軍がみな駿府に撤退する中、夫家康は居城・岡崎城への帰参を果たし、今川家の人質生活に終止符をうちました。このとき家康は今川から離反したわけではなかったのですが、その後も駿府には戻っていません。すなわち、築山殿ら妻子は駿府に置き去り状態でした。

なお、義元の後を継いだ今川氏真は、家康から弔合戦を進められますが、これに動くことはなかったといいます。

家康が今川から独立、駿府から岡崎へ移る

そして永禄4年(1561)、家康は織田信長からの和睦の働きかけに応じ、今川氏と断交してついに独立を果たします。

この裏切りに当然のごとく、氏真は激怒。駿府にとどまっていた築山殿らは身の危険にさらされることになったワケですが、永禄5年(1562)に家康が上ノ郷城城主・鵜殿長照を攻め、長照の2人の子を捕えて人質交換の策に打って出ます。

長照の妻が義元の妹だったこともあり、人質交換は無事に成立。築山殿と信康・亀姫らは無事に岡崎城へ送られることになっています。

徐々に崩壊していった夫婦仲…

しかし、岡崎城では築山殿にとって苦難の道が待ち受けていました。

彼女は救出されましたが、一時的にとはいえ、家康に見捨てられたようなものです。彼女がそのように考えても不思議ではないでしょう。岡崎城に着くと「築山」という場所に館を与えられて幽閉同然の生活を強いられ、これにちなんで "築山殿・築山御前" と呼ばれるようになったといいます。

姑の存在と父の死

背景には、家康の母・於大の方の存在がありました。於大は家康を人質にしていた今川家を憎んでいたとされており、今川の血を引く築山殿は疎まれていたという説もあるようです。

また、追い打ちをかけるように同年に父の関口氏純が死去します。これは娘婿の家康が今川氏から独立したため、氏真からその去就を疑われた結果、切腹を命じられて正室と共に自害した、という悲惨な末路でした。

永禄8年(1565)になると、家康と側室の鵜殿氏との間に二女督姫が生まれています(『徳川幕府家譜』『御九族記』)。嫉妬深い築山殿にとって、この出来事は苦痛以外のなにものでもないでしょう。

息子の結婚 + 夫との別居

しかも、まだまだ苦痛が襲いかかります。永禄10年(1567)、嫡男信康が織田信長の娘・徳姫と結婚。これは信長と家康の同盟強化のためでした。このとき2人はともに9歳です。夫婦仲はとてもよく、やがて2人の女子にもめぐまれ、築山殿の嫉妬心をかきたてることになっていきます。

一方、三河・遠江の2か国を領した家康は、元亀元年(1570)に遠江国の浜松に居城を移しました。しかし、築山殿というと、ようやく築山の館から岡崎城内へ移ることになり、信康とともにそのまま岡崎にとどまったといいます。

皮肉なことに、彼女は再び夫・家康と完全に離れて暮らすことになったのです。ちなみに息子・信康はこのとき12歳で元服し、家康の命で岡崎城主として三河を守備することとなっています。

陰謀を企てた!?

信康・徳姫の間に、天正4年(1576)には登久姫、翌年には熊姫が誕生しますが、いっこうに男児には恵まれませんでした。そして、このころから築山殿は嫉妬して徳姫と不仲に…。一方の信康も徳姫の不仲が確認できる史料が残されています(『家忠日記』)。

築山殿は信康と徳姫を引き離そうと、部屋子をしていた女性や武田家臣の娘を信康の側室にさせるなどし、さらには武田勝頼に内通して家康と信長を滅ぼす計画まで立てたといいます。しかも、それが成功したなら徳川領を信康に継がせ、自分は武田の武将と結婚したい旨を告げ、勝頼もこれを快諾して同盟の誓書を築山殿に送ったとか。

これらの陰謀は確かな史料によるものでないので、真実かどうかはわかっていません。

陰謀発覚!徳姫の12ヵ条の訴状

やがて陰謀は、天正7年(1579)に徳姫の知るところとなります。

築山殿の留守中のある日、織田・徳川の敵方である武田勝頼から築山殿に宛てた内通の文書が発見されました。徳姫は父・信長に12ヵ条からなる訴状を届けたといいます。

  • 築山殿が武田家と内通して織田方の情報を流している疑いがある事
  • 信康が鷹狩の際に盲目の法師を殺害した事
  • 信康が徳姫の侍女の腕をへし折った事
  • 信康が町の踊り子を弓矢で射殺した事
などです(『松平記』)。

ただし、徳姫は一方で以下のようなことも伝えており、信康の陰謀については半信半疑だったようです。

  • 武田勝頼からの内通文書に、信康が武田に味方する旨がはっきりとは書かれていない。
  • だから今後は努力して信康を味方に取り戻したい。
  • ただ、父上がもし油断したなら信康はいずれ敵になるかもしれないから、念のため報告する

夫に処刑された最期

信長は真偽を確かめるべく、家康家老の酒井忠次を呼んで詰問しました。しかし、これに対して忠次が弁解しなかったため、信長は築山殿と信康の処刑を決断したといいます。しかも、忠次はこのとき異議もなく承知して退出したというのです。

浜松城に帰った忠次は、家康に信長の意志を伝え、家康は苦渋の選択をせまられることになったようです。『三河物語』によると、家康は

「信長に恨みなし。忠次申し開きが不充分であったからには止むをえぬこと。大敵の武田を前に後ろ楯の信長に反いては徳川家は保てぬ。もはや是非もなし。」
『三河物語』

と言い、苦心の末に信長との同盟関係の維持を優先することを決心し、やむなく妻子の処断を決めたといいいます。

こうして同年8月29日、築山殿は浜松に近い遠州敷智郡富塚という所で殺害されたのです。(『松平記』『神君御年譜』『徳川実紀』)そして信康もまた、9月15日に切腹を命じられて二俣城で自害しています(『三河物語』『家忠日記増補』『浜松御在城記』)。

彼女はまさに戦国の世に翻弄された女性の一人でした。「今川一門の人間でなければ…」「家康と出会ってなければ…」「義元が桶狭間で信長に勝利していたら…」など、”たられば” を上げたらキリがないのですが、今川・松平間の歴史が彼女の生涯に深く関わっていたことを考えると、なんともやるせない気持ちになります。

墓所は浜松市中区広沢の西来院。首塚が岡崎市の祐傳寺、のち、天保年間のころには八柱神社に移されました。法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼。


【主な参考文献】
  • 北島正元編『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
  • 新人物往来社『徳川家康読本』(新人物往来社、1992年)
  • 二木謙一『徳川家康』(筑摩書房、1998年)
  • 本多隆成 『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
  • 小和田哲男『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)

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戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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