「どうする家康」徳川家康はなぜ信長と同盟を結んだのか?

桶狭間出陣時(当時27歳)の姿を模した信長像(左)と、徳川改姓時(当時25歳)の姿を模した家康像(右)。画像は写真ACより
桶狭間出陣時(当時27歳)の姿を模した信長像(左)と、徳川改姓時(当時25歳)の姿を模した家康像(右)。画像は写真ACより

 大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする!」では、松平元康(後の徳川家康)が織田信長が待つ尾張国の清須城を訪問。そこで、信長のみならず、その妹・お市や、信長家臣の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と対面する様子が描かれていました。

 しかし、近年では、元康が清須を訪問して、信長と盟約を結んだ「清須同盟」(永禄五年=1562年の正月)はなかったとする見解が有力です。元康が信長と同盟を結んだことは事実ですが、清須には赴かなかったということです。『信長公記』(信長の臣・太田牛一が著した信長の一代記)や『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の自伝)に、元康の清須訪問の記述がないこと、また今川方と三河で戦をしている時に、清須を訪れる余裕はなかったであろうことが理由として挙げられます。

 元康と信長はどのような内容の同盟を結んだのか?これについても、諸説あるものの、領域確定を基にした和議ではないかと言われています。では、両者はなぜ和議を結んだのでしょう?

 『三河物語』には、今川方による三河国衆の収奪と忍従が記されているということもあり、元康の岡崎入城の直後に「駿河(今川氏)と手を切り、元康の名を変えて、家康となられた」との記述があります。ある意味、今川と手を切るのが当然と言わんばかりの筆致です。

 一方、『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、元康が今川氏真(桶狭間で討死した今川義元の後継者)に、義元の弔合戦を勧めるも、氏真は暗愚で仇討ちの想いなく、仏事にのみ日を過ごし、奸臣を重用、遊興三昧。そうした時、織田家から和議の提案が。暗愚で仇討ちの想いが薄い氏真と結ぶよりは「英傑」の信長と講和を結んだ方が良いとして、元康は清須に向かうのでした(『徳川実紀』では、元康は清須を訪問したとあります)。

 当時、信長は美濃国の斉藤氏への攻勢を強めようとしていました。そうした時、背後に敵がいるよりも、味方にした方が良いでしょう。元康も西三河そして東三河をできるだけ早めに平定したいと考えていたはずです。そうした両者の思惑が重なり、織田・徳川の同盟が結ばれたのではないでしょうか(盟約成立は永禄四年=1561年の2月頃とも言われています)。

 戦国時代、大名たちは、同盟を結んでは破棄するということを繰り返していました。元康もその例外ではないのですが、信長との同盟だけは、後に信長が亡くなるまで、破られることはありませんでした。それは、戦国の世にあって、珍しい事例と言えるのではないでしょうか。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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