「斎藤朝信」は ”越後の鍾馗” と評された、上杉家の守り神だった!
- 2022/07/04
上杉謙信の家臣には、あまりメジャーでない武将が多い。その中でも、史料での出現率の低さでトップクラスを競っているのは斎藤朝信(さいとう とものぶ)であろう。知名度が極めて低いにも関わらず、数少ない記述から窺い知れる人物像は、謙信からは絶大なる信頼を寄せられ、部下や民からは慕われるという大人物ぶりなのである。
このちぐはぐさが何故生じたのかについてはひとまず置いておくとして、本当に少ない史料の記述をもとに、ピースの足りないジグソーパズルを組み立てるように、その人物像を再現してみたい。
このちぐはぐさが何故生じたのかについてはひとまず置いておくとして、本当に少ない史料の記述をもとに、ピースの足りないジグソーパズルを組み立てるように、その人物像を再現してみたい。
七手組
斎藤朝信は大永7(1527)年、越後赤田城の城主・斎藤定信を父として生を受けた。越後斎藤氏の出自については、藤原氏であるという説も存在するが定かでない。ある程度はっきりしているのは、越後守護の上杉氏に仕え、守護代の長尾氏が台頭すると、長尾氏に仕えたということだ。かつて越後守護代の長尾為景は、越後守護・上杉房能に反旗を翻したが、この謀反に斎藤昌信が加担したとされる。ちなみに長尾為景は上杉謙信の実父であり、斎藤昌信は朝信の祖父にあたる。これ以降、斎藤氏は基本的には長尾家に仕え続けた。
朝信が歴史の表舞台に登場するのは永禄2(1559)年以降である。この年に朝信は「七手組の大将」としてその名を記録されている。
「七手組の大将」とは長尾(上杉)軍における各部隊長のことであり、長尾藤景・柿崎景家・北条高広・直江景綱・本庄実乃・中条藤資、これに斎藤朝信を加えた7名を指す。 いずれも重臣クラスであり、錚々たる武将が名を連ねている。
永禄4(1561)年の関東管領職相続によって長尾景虎は上杉を名乗ることになるのだが、その就任式において朝信は柿崎景家とともに太刀持ちを務めていることからも、その信頼の厚さがわかろうというものだ。実際、謙信は、手強い敵に対して朝信を差し向けていることが多い。これについては後述する。
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信玄との逸話
『甲越信戦録』によると、上洛を間近に控えた謙信が武田信玄との戦を一時中断するべく使者として朝信を甲斐へ遣わしたという。この際、朝信は信玄と対面し、戦の一時中断を要請し快諾されている。その後、朝信が信玄から盃を頂くという段になって、信玄は「その方、小兵である上に隻眼のようだが、知行はどのくらいか。」と意地悪く笑いながら尋ねたという。もちろん、これは以前から耳にしていた朝信の評判の高さの真偽を確かめようと、試しにかかったのであるが、朝信は全く意に介せず、「600貫を頂いております。」と答えた。信玄は「それはもらい過ぎであろう。」笑ったが、朝信は毅然と「武田の家風は存じ上げませんが、越後では譜代の家臣は身障者でもそれ相応の録を賜ります。」と述べ、さらに次のように続けたという。
「私の隻眼は武功の証でございますし、武田家でも山本勘助という、隻眼で左足も不自由な小兵を召し抱えているではありませんか。ですから私に全く恥じるところはございません。」
これを聞いた信玄は「晏子(あんし)のような者よ。」と褒め称えたという。晏子とは中国春秋戦国時代に一、ニを争う名宰相と評された晏嬰(あん えい)のことである。
物凄い絶賛ぶりであるが、ここで気になるのは『甲越信戦録』が史書ではないということだ。『甲越信戦録』は江戸後期の1810年以降に成立した軍記物語である。作者不詳とされるこの物語は、『川中島五戦記』を基にして『甲陽軍艦』や『武田三代記』、そして地元川中島の村人の伝承等も交えて書かれたという。
軍記物語である以上、創作の部分が存在するのは避けられないと思われる。しかし、話の柱である『川中島五戦記』は、江戸初期に3代将軍家光が上杉家臣に命じて書かせたと言われるし、『甲陽軍艦』は武田家重臣・高坂弾正の語りを口述筆記したものとされているから、事実に基づく部分が多分に存在することも否定できない。そして、朝信が文武に秀でた名将であり、特に対外交渉に優れていたとされているので、これに類する話は実際にあったのかもしれない。
越後の鍾馗(しょうき)
朝信はしばしば「越後の鍾馗」と評される。鍾馗とは道教系の神であり、日本では魔除けや、学業成就に効があるとされているが、武将がこのように評されるのは珍しいのではないか。しかも、朝信は勇将としても知られているのだ。事実、謙信の越中攻略、第四次川中島の戦い、北条氏康を追い詰めた小田原城攻め等で武功を挙げていることがわかる。私はこの鍾馗という言葉に、斎藤朝信の武将としてのすごさが凝縮されているような気がしてならない。
『北越軍記』にも以下のくだりがある。
「柿崎和泉守景家ハ剛強ナル者ニテ。度々ノ手柄有之候。雖然謙信如何被存候乎。斎藤下野守程ニハ不被存候由。」
ざっくり訳すと、柿崎景家は勇猛果敢な武将であるが、謙信は総合的に見ると斎藤朝信ほどではないと評価していたというところか。
要は、思慮分別という点を考えると朝信のほうが危なげないということだろう。そう考えると、謙信が一筋縄ではいかない強敵に対しては、朝信を差し向けたという話も頷ける話だ。
天正3(1575)年の「上杉家軍役帳」には217人の軍役を負担したとの記述があるが、ここからもその信頼度がうかがい知れる。天正6(1578)年に謙信が没した後も、朝信は「越後の鍾馗」であり続けた。謙信の跡目争いである「御館の乱」では景勝方につき、対抗する影虎方を支持する武田勝頼に和睦交渉を持ちかける。景勝方は、東上野の割譲と黄金の譲渡という条件で和睦を成立させるが、この立役者が朝信だとされているのだ。
この活躍に、景勝は厚遇で応えた。恩賞として、刈羽郡の6ヶ所及び、景虎方に味方した神余親綱の旧領を与えられたのである。さらには、嫡子の乗松丸にも北条の旧領が与えられるという厚遇ぶりであった。
私は、朝信が「越後の鍾馗」と呼ばれるのにはもう1つ理由があると思っている。それは「人徳」であろう。朝信は無骨そうに見えて、士卒や農民たちを大事にしたと伝わる。そのため、万民で彼を慕わぬ者などいなかったという。越後の民にとって朝信は、まさに神のような存在だったのではないだろうか。
天正10(1582)年の本能寺の変後、朝信は老齢を理由に隠居する。没年は文禄元(1592)年と伝わる。
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あとがき
斎藤朝信の没後には、後日談がある。朝信から家督を継いだ景信は病のため上杉の会津移封に伴う移住に従えず、越後に住み続けた。景信の子、信成は当初越後在住であったが、米沢藩2代当主・上杉定勝は彼を300石で召し抱えるため、越後から呼び戻したという。ちなみに定勝は景勝の実子である。斎藤氏は朝信の孫の代になって再び、上杉家家臣となったのである。おそらくであるが、定勝は父・景勝から斎藤朝信の話をしょっちゅう聞かされていたのではないか。「越後の鍾馗」と言われた斎藤朝信の孫が越後にいると知り、是非とも米沢に呼び寄せたいと思っていたに違いない。
斎藤朝信の血筋は、上杉家にとって守り神のような存在となっていたのかもしれない。斎藤家はその後、幕末まで米沢藩士として存続したという。
【主な参考文献】
- 井沢元彦『英傑の日本史 上杉越後死闘編 』 角川文庫 Kindle版 2013年
- 岡沢 由往 『甲越信戦録―戦国哀歌川中島の戦い』竜鳳書房 2006年
- 川口素生『<上杉謙信と戦国時代>軍神も一苦労? 上杉謙信の家臣団統率術』 歴史群像デジタルアーカイブス 2015年
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