「第四次川中島の戦い(1561年)」信玄と謙信が一騎討ち?川中島最大の激闘の真実とは

 5回にも及んだ武田信玄と上杉謙信の激突「川中島の戦い」で最も有名なのが、永禄4年(1561)に行われた「第四次川中島の戦い」です。江戸時代に描かれた浮世絵の武者絵は、ほとんどがこの合戦を取り上げています。川中島の戦いといえば、まさにこの第四次川中島の戦いなのです。

 信玄と謙信が一騎打ちをしたシーンは銅像としても現代に伝えられています。果たして勝ったのは信玄と謙信、どちらだったのでしょうか?今回は両者最大の損害を出すことになった死闘、第四次川中島の戦いについてお伝えしていきます。

戦いの背景

 弘治3年(1557)の第三次川中島合戦では、将軍足利義輝の仲介によって謙信と信玄は和睦となりました。しかし、結果的に両者は再び衝突することになります。まずは第三次川中島のその後の両者の動きからみていきましょう。

関東管領を引き継ぎ、北条攻めの大義名分を得る謙信

 上杉謙信(この時はまだ長尾景虎)の動きですが、永禄2年(1559)に二度目の上洛を行い、将軍義輝より関東管領就任の許しを得ています。

 実はこれ以前に関東管領の上杉憲政は、相模国の戦国大名である北条氏に敗れて越後国に逃れていました。謙信は上杉憲政から関東管領を引き継ぐことを許可されたことで、北条氏を討つ大義名分を得るのです。

他国との連携を進める信玄

 一方、信玄は和議の条件として提示した信濃国守護に補任され、着々と北信濃制圧の準備を進めていきました。もちろん将軍仲介の和議が結ばれていますから、表立っての謙信との衝突は起きていません。

 謙信が関東管領に任命されたことを宣伝すると、村上義清や高梨政頼らなどの信濃国衆らが祝儀の太刀を謙信に献上しています。信玄になびいている信濃国衆も大勢いましたが、『上杉家文書』によると、太刀を持参した者の中には明らかに武田方に属する信濃国衆も多くいたようです。関東管領にはそれだけの権威があったことを物語っています。

 このとき信玄は謙信の関東出陣に備え、その後は謙信の背後を突くべく、越中国の神保長職と通じました。長職に攻められた椎名氏が謙信に援軍を要請すると、永禄3年(1560)3月、謙信は越中国に兵を向けて富山城、増山城を立て続けに陥落させ、神保氏を追放しています。

 神保氏が敗れたとはいえ、このように信玄は他国と連携して謙信包囲網を作り上げていくのです。己の信念に従って猛進していく謙信とは実に対称的ですね。

謙信、初の関東遠征を行う

同年の8月には、いよいよ謙信が義によって北条氏を討つべく、本拠・春日山城からはるか遠い関東に向けて出陣。これは領土拡大のための戦いではありません。関東を鎮めるための戦いです。

 三国峠を越えて厩橋城など北条方の諸城を攻略。この厩橋城を関東における拠点にします。謙信に従った関東の諸将は多く、やがて兵力は10万にも及びました。

 戦上手で、さらに10万の兵力に膨らんだのですから北条氏に勝ち目はありません。北条氏は本拠地である小田原城に籠城し、信玄にも援軍を要請します。なお、この頃は、北条・武田・今川の三者は同盟関係(甲駿相三国同盟)にありました。

 やがて謙信は永禄4年(1561)3月に小田原城を包囲するまでに至ります。しかし、北条氏の固い守りを破れず、陥落させることが難しいと考えた謙信は兵を鎌倉へ向けることに…。そして鶴岡八幡宮にて正式に上杉氏の家督を相続して関東管領に就任。これより謙信は長尾景虎から「上杉政虎」と名前を改めることになりました。

狡猾な信玄。謙信留守の越後をつけ狙う

 さて、謙信の関東遠征により、北条氏から謙信をけん制するように要請された信玄は一体何をしたのでしょうか? 謙信は祖父・長尾能景と一向宗徒が仇敵の間柄であったことから一向宗を禁止していました。北条氏から謙信をけん制するように要請された信玄は、この点に目をつけます。

 信玄の継室の妹(三条公頼の三女)は本願寺顕如の妻です。つまり、信玄は一向宗のトップである顕如と縁戚関係にあったということです。こうした関係性から顕如と通じていた信玄は、謙信が留守中の越後国を狙い、加賀・越中の一向宗門徒に越後への侵攻を画策させるのです。

 さらに信玄は謙信を背後から牽制すべく、援軍を小田原城に送るとともに、碓氷峠を越えて上野国の松井田に侵入し、放火などの撹乱工作を行なっています。そして北信濃に出兵し、割ケ岳城(信濃水内郡)を陥落させ、越後国境を脅かします。

第四次川中島古戦場、信玄vs謙信の要所ほか…。色が濃い部分は信濃国

 こうした情勢から、謙信はやむなく北条氏討伐の関東遠征をとりやめ、永禄4年(1561)6月末には越後国へ帰国せざるを得ませんでした。

 なお、時期は定かではありませんが、信玄は川中島に「海津城」を築城。高坂昌信を城代として川中島一帯の統治をより強固なものとしています。

川中島で両軍が対峙

 この時点で北信濃の川中島一帯はほぼ信玄が掌握している状態でした。結果的に関東遠征を信玄に邪魔された謙信は、いよいよ雌雄を決しようと決意。同年8月には越後国を出陣、15日には善光寺に到着しています。その報告を聞いて16日には信玄は甲府を出陣しました。

 なお、この戦いの確かな記録は存在しませんので、『甲陽軍艦』が基になっています。

『甲陽軍鑑』等における第四次川中島の展開。8/15-9/9
『甲陽軍鑑』等における第四次川中島の展開。8/15-9/9(出所:wikipedia

 善光寺に着陣した謙信は、意表を突く行動に出ます。犀川を渡河して川中島に侵入、海津城を横目に千曲川をも渡河し、妻女山に布陣したのです。

 敵の領土に侵入しすぎており、信玄の本隊と海津城から挟撃されてもおかしくない布陣です。もちろん謙信の家臣も反対したでしょうが、謙信はのらりくらりとかわし続ける信玄を引きずり出すためには危険を承知でこのような戦略をとったのでしょう。

 それに対し、信玄の本陣も長野盆地の西側、茶臼山に布陣しました。ちなみに兵力は信玄側が2万に対し、謙信は5千の兵を善光寺に残していたのもあり、1万2千です。兵力的にも不利、陣取りも不利、よって謙信は背水の陣を構えたのではないかとも考えられています。

 それが信玄には不気味に映ったのでしょう。危険を冒した戦はなるべく避ける信玄ですから、謙信の意図を計りかね、まずは無難に海津城に入り、兵力を結集しました。これが8月29日のことです。

 海津城で作戦を練る信玄と、その海津城を見下ろす妻女山で静観する謙信は、こうして9月9日まで対峙を続けました。

八幡原で激突!

信玄が選択した啄木鳥戦法

 先に動いたのは意外にも信玄の方でした。なにせ兵力で劣る謙信が圧倒的に不利な状況にいるのです。宿敵謙信を倒すにはまさに千載一遇の好機でした。9月9日に信玄は軍議を開き、軍勢を二手に分けて挟撃する作戦を決断します。

 川中島の戦いで有名な「啄木鳥戦法」です。信玄の軍師役とされる山本勘助や、馬場信房が進言したと考えられています。

山本勘助の肖像画
山本勘助の肖像画

 この作戦は、本隊は川中島の八幡原に布陣し、別動隊が妻女山の謙信の陣営に夜襲を仕掛け、謙信の軍勢が夜襲に驚き下山してきたところを本隊が待ち伏せして挟撃するというものでした。

 常に慎重な信玄が決断したのですから、かなり成功する可能性の高い作戦だったのでしょう。ここまで守勢を貫いてきた信玄が、いきなり決戦を仕掛けてくるとは謙信も考えないだろうという読みもあったのではないでしょうか。

 ちなみに啄木鳥戦法とは、啄木鳥がくちばしで獲物の潜む木を叩き、驚いて飛び出してきたところを捕まえるところから命名されたようです。

謙信は察知し下山

 しかし謙信は海津城の動きを冷静に監視しており、いつもより炊飯の煙が多いことから信玄が動くことを察知していました。謙信としてもここまで信玄と対峙してきて、信玄の用心深さはよくわかっていましたから、挟撃の作戦にくることを予想していたのかもしれません。むしろ、そのように謙信が誘導したとも考えられます。

 夜のうちに謙信は妻女山を静かに下山し、千曲川を渡り、信玄よりも早く八幡原に布陣しました。このときしんがりとして甘粕景持らに千の兵を与え、渡河地点を守らせています。

 妻女山に謙信がいないことに気が付けば、別動隊が謙信を猛追してくるのは明らかです。後背を突かれれば謙信といえども厳しい状況になりますので、背後を突かれる前に決戦を終わらせる必要があります。

 そのため少しでも時間稼ぎをするしんがりは必要だったのでしょう。つまり謙信は1万1千の兵を率いて八幡原に布陣したのです。信玄軍は2万ですからおよそ半数…それでも謙信はここが正念場とわかっていました。

 こうして謙信と信玄の主力同士が初めて全面衝突する川中島の戦いが幕を開けます。

第四次川中島の戦いの勝者はどちらか

謙信と信玄の一騎打ち

 9月10日の早朝、八幡原は濃霧に包まれていました。敵が来ると覚悟して布陣していた謙信と、夜襲を受けて慌てふためく謙信が下山してくるのを待とうと構えていた信玄では心構えが違います。

 濃霧が晴れて、そこにいるはずのない謙信の主力が現れたのですから信玄も大いに驚いたことでしょう。信玄の本隊は8千。高坂昌信や馬場信房ら妻女山を攻めた別動隊が1万2千です。八幡原での対峙ではなんと信玄側が兵力的に不利になっていました。

 信玄の本陣は鶴翼の陣で布陣しており、そこに柿崎景永率いる謙信方の先鋒が車懸りで攻め込みます。まさに乱戦です。一点突破で信玄の首を狙う謙信方の勢いは凄まじく、啄木鳥戦法を進言した山本勘助をはじめ、信玄の実弟で大黒柱であった武田信繁、侍大将の諸角虎定、初鹿野忠次、安間三右衛門、三枝新十郎、そして一族の油川彦三郎といった有力な家臣が、信玄を守るべく討ち死にしています。嫡男である武田義信も負傷しました。

『甲陽軍鑑』等における第四次川中島、9/10 八幡原の戦いの展開
『甲陽軍鑑』等における第四次川中島、9/10 八幡原の戦いの展開。(出所:wikipedia

 こう考えるとかなり深くまで信玄の本陣は攻め込まれたということでしょう。しかし、なかなか信玄の首を討つことはできません。時をかけると妻女山を攻めた別動隊が謙信の背後に襲い掛かる懸念がありますから、ここで謙信は勝負をかけて自ら信玄の本陣を攻めたのでしょう。

 これが伝説として語り継がれることになる謙信と信玄の一騎打ちです。『甲陽軍鑑』によれば、謙信自ら信玄本陣まで切り込んだとあります。謙信が信玄本陣に単騎で切り込み、馬上から信玄に三太刀斬りつけましたが、信玄が軍配でこれを受け止めました。

 大将同士が一騎打ちになるなど信じがたい話で、真偽は不明ですが、関白近衛前久から謙信に宛てた書状の中で、「期せざる儀に候と雌も、自身太刀討に及ばるる段、比類無き次第、天下の名誉に候」と記されていることから、謙信が自ら太刀を持って戦った可能性もあり得ないワケではないのです。

両者勝鬨をあげて撤退

 前半は押され気味の信玄でしたが、妻女山に向っていた別動隊が甘粕景持のしんがりを撃破し、謙信の背後を突くと形勢が逆転します。当初の思惑通りに挟撃することに成功したのです。これにはさすがの謙信も不利を悟って善光寺へと兵を退きました。

 両陣営の損失は、戦死者が武田方は4千人に対し、上杉方は3千人ほどでした。前半は謙信が優勢、後半は信玄が優勢ということで決着はついていません。しかし信玄も謙信も自軍の大勝を宣伝したようです。

 各資料によると、『勝山記』では「景虎(謙信)ことごとく人数打死イタサレ申候」とあり、『甲陽軍艦』によると「越後衆を討取其数、雑兵共に三千百十七」とあります。さらに『温泉寺所蔵文書』には「敵三千余人討ち捕り候」と記録されています。

 9月13日付の謙信から家臣に宛てた感状には「凶徒数千騎打ち捕え…(略)」とありますし、10月5日付の関白近衛前久から謙信に宛てた書状では、「(略)…八千余討ち捕られ候事、珍重の大慶に候」とあります。8千の武田勢を討ち取ったというのは明らかに誇張でしょう。

 負けたとなると反乱を起こし敵方に付く勢力が現れることは間違いありません。その後の家臣団の統率を考えると、互いに勝ったことをアピールしたかったようです。ただし、謙信の感状が五通以上残っているのに対し、信玄の感状はほとんどが偽物と考えられています。江戸期になって家格上昇運動の一環として作成されたようです。実際は敗戦と受け止めるほど、信玄にとっては手痛い損害を受けた戦いだったのではないでしょうか。

おわりに

 信玄はこの第四次川中島の戦いで信繁をはじめとする多くの重臣を失っていますが、海津城を守り切り、謙信の侵攻を防いだことで北信濃の支配力を強めることに成功しました。ただし謙信も力を未だ温存しており、雌雄が決したわけではありません。

 もしこの第四次川中島の戦いで、どちらかの圧勝ということになっていれば、その後の歴史は大きく変わっていたはずです。勝者が天下を治めることになったかもしれません。

 それにしても謙信の千曲川を渡り妻女山に布陣する大胆さ、信玄の戦略を見抜く鋭さには驚きます。また、戦略を見抜かれても最後まで謙信の猛攻に耐え抜いた信玄の胆力もやはり並外れたものだったといえるでしょう。まさに戦国時代最強の英雄同士の激突が、この第四次川中島の戦いだったのです。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 平山優『歴史文化ライブラリ 武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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