「加藤清正」武力一辺倒ではない!統治能力も抜群の初代熊本藩主
- 2019/10/10
現代でも熊本で屈指の人気を誇り、数多くの華々しい伝説に彩られている人物。それが加藤清正(かとう きよまさ)です。秀吉子飼いの将は数多くその名が知られていますが、清正の人気はその中でもトップクラスと呼ぶにふさわしいものがあります。
ただ、彼についてはどうしても戦における華々しい伝説的なエピソードばかりが先行しており、細かな活躍についてはあまり知られていないという側面もあるのです。そこで、この記事では清正の派手なだけではない、その実像に迫っていきたいと思います。
ただ、彼についてはどうしても戦における華々しい伝説的なエピソードばかりが先行しており、細かな活躍についてはあまり知られていないという側面もあるのです。そこで、この記事では清正の派手なだけではない、その実像に迫っていきたいと思います。
【目次】
秀吉との縁から、幼少期には彼に仕え始めた
永禄5年(1562)、清正は尾張国の土豪である加藤清忠の子として生まれました。母は秀吉の母であるなか(大政所)の妹で、生まれながらにして秀吉とは親戚の関係にあったことを意味しています。清忠は清正が3歳の年に亡くなってしまったため、天正元年(1572)に長浜城主となった秀吉のもとへ身を寄せ、小姓として彼のそばで仕えました。170石という領地を与えられた清正は、城の台所役を務める傍らで秀吉子飼いの将として生きていくことになります。
天正9年(1581)には秀吉の中国攻めに従軍し、いくつかの戦いに参加した後は本能寺の変勃発によって急遽帰国。そのまま山崎の戦いに参加し、清正自身も明智勢を討ち取る活躍を見せたと伝わっています。
清正の名が一躍轟くことになったのは、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いに際する大活躍が大きいでしょう。主君と柴田勝家の間に勃発した後継者争いで、彼は近藤新七や戸波隼人といった猛将を討ち取ったほか、敵将山路将監の首を取ったとも伝わっています。
こうした活躍によって秀吉軍を勝利に導いた功績は高く評価され、秀吉の小姓に過ぎなかった彼は3千石もの土地を与えられるという大出世を果たしました。
以後、清正は賤ケ岳で功を挙げた人物を指す「賤ケ岳の七本槍」に列せられ、これは現代まで彼の代名詞となっています。ただし、この大出世には少なからず不満もあったようで、彼と同じような活躍を見せた福島正則が5千石の加増を受けたことに腹を立てていたようです。
戦よりはむしろ財務官として活躍
天正13年(1585)には秀吉の関白就任に伴い、清正も従五位下・主計頭という官職を与えられました。しかし、賤ケ岳における活躍はともかくとして、それ以後に参加した九州平定や四国平定などの戦においては、大半が後詰めなどの後方支援に当てられているという事実には注目しなければなりません。近年の研究によれば、彼は秀吉から「武勇」ではなく、「財務管理」を期待されていた節があると指摘され、戦においてそれほど重要な役割を任されなかったのはこうした事情によるものと考えられています。
実際、清正は秀吉の直轄地であった堺周辺の代官を務めており、豊臣政権の経済事情や貿易構造の把握に長けていたと言われています。当時の堺はかなりの商人街であり、同時に盛んな貿易が行なわれるなど、秀吉にとって極めて重要な経済の拠点でした。そのため、この地を任されていることと戦での役割を考えると、彼の評価が全く異なるものになります。
ただし、清正の功績をまとめた『清正記』ではこの時期においても戦で抜群の活躍をしていたように脚色がなされており、やはり後世で財務官としての功績を記しても地味なため物語としては今一つだと判断されたのでしょう。
小西 行長とともに肥後半国の領主へ
一方、天正14年(1586)には秀吉の九州平定に従い、失政によって改易された佐々成政の後任として清正と小西行長が肥後半国の領主に任命されています。(清正25万、小西24万石)秀吉のこの処置は、彼ら2人を将来の朝鮮出兵における先兵の軍事力として位置付けた、と考えられています。隈本城(熊本城の前身)の普請工事と城下町の形成はその一環です。朝鮮出兵に向けて、清正の家臣らの住まいとその軍需品、生活用品などを供給できる場所が必要だったのです。
清正は代官として培ったセンスを生かした抜群の治世を見せたようで、このように領国経営を上手く進めていましたが、皮肉にも彼の代名詞である朝鮮出兵を原因として、のちの肥後国の治世は困難を極めていくようになります。
朝鮮出兵での活躍も、戦の負担と和平派の妨害に苦しむ
秀吉の天下統一後の文禄元年(1592)、文禄・慶長の役が勃発すると、秀吉の命で清正も朝鮮の地へと旅立っていきました。朝鮮出兵における清正の戦ぶりは半ば伝説として語り継がれていますが、これまでと異なって大軍の司令官を務めなければならなかった清正は、家臣ともどもその準備に追われていたようです。
清正は豊臣軍の二番隊として朝鮮の地へ降り立つと、一番隊を指揮していた小西行長とともに朝鮮の首都である漢城を攻略しました。無事に漢城を落城させたのちは他の部隊とともに北上していきますが、やがて清正は歩みを止めた他部隊を置いて単独でさらに北上。海汀倉の戦いでは単独で朝鮮軍を打倒すると、現地で囚われていた朝鮮の王子を救出するなど異色の活躍を見せました。
ところが、この時期には石田三成や小西行長の手によって、明側との講和に向けた手はずが着々と整っていたのです。そこで清正は「好戦派」として彼らに疎んじられるようになり、ついには手元に置いていたはずの王子たちを返還せざるを得なくなりました。
しかしながら、三成らが和平に向けた歩みを進めていく一方で秀吉は攻略を諦めておらず、彼の命によって晋州城の攻撃を実行します。この戦では清正が今でいう「亀甲車」を創案し、実際に戦場で運用したことによって戦功を挙げたという伝説が残されています。
こうして引き続き目覚ましい活躍を見せる清正でしたが、和平派にとってみれば彼の快進撃は邪魔でしかなかったのでしょう。慶長元年(1596)に彼は三成らによって「和平を妨害する独断専行の人物」というそしりを受け、これを踏まえた秀吉の命によって彼は朝鮮の地から呼び戻されたのち、京都の地で謹慎処分を言い渡されてしまいました。
その後、清正は伏見城で地震が発生した際に秀吉のもとへ真っ先に駆け付けたことで罪を許されたというエピソードが残されていますが、この件は事実ではなく、彼が許しを得た理由は徳川家康や前田利家ら有力者たちの政治的な働きかけの結果であると解釈されることも。
こうして何とか罪を許された清正は、朝鮮出兵によって国力が大きく疲弊してしまった領地を立て直すべく、異国で培った経験をもとに外国貿易をもって財政面の改善に乗り出し、一定の成果を挙げています。
そうこうしている間にふたたび朝鮮の地への出兵命令が出され、彼は一時休戦中の敵から急襲されるなど危機的状況を経験しています。ただ、最終的に慶長3年(1598)の秀吉の死をもって遠征計画そのものが中断されたので、彼は朝鮮の地に猛将としての名をとどろかせて帰国の途に就いています。
関ケ原では徳川方に属し、勝利に貢献
秀吉死去後の日本では、徳川家康と石田三成による次代の天下人をめぐる対立が徐々に本格化していきました。この対立において、清正は先の朝鮮出兵によって三成から妨害を受けたことで、必然的に家康へと接近します。清正は他の武将らと結託して石田三成暗殺騒動を引き起こすほどの反三成急先鋒として知られていました。しかし、一方で清正は家康の方針すべてに従っていたわけではありません。島津氏の内乱である庄内の乱では家康の意に反する形で秘密裏に支援を行っていたことが発覚。この行為で家康の怒りを買い、上洛や会津征伐への従軍を禁じられてしまったようです。
こうした経緯から清正の西軍入りも噂されるほどでしたが、最終的には家康に許される形で東軍への所属が認められます。これを受けて彼は関ケ原本陣ではなく西国の西軍勢力と対峙し、宇土城の小西行長や柳川城の立花宗茂を攻略しています。
肥後一国を拝領、初代熊本藩主となる
関ケ原で大功を挙げたことにより、戦後は肥後一国52万石の大名へと上り詰めます。その後、徳川の世において清正はこれまで認知していながら手を付けることができなかった領内の整備にいそしみました。特に当時の治水事業は現代においても活用されているほど先進的な技術に基づいたものです。
ただ、朝鮮出兵による負担を取り返すのに、彼に残された時間が多くはありませんでした。それでも徳川家への服従を誓うべく、慶長11年(1606)の江戸城や慶長15年(1610)の名古屋城普請工事に率先して協力。領内整備だけでなく幕府の統治事業にも協力を惜しまなかった様子がうかがえます。
さらに、彼は元豊臣家臣という地位を生かして家康と対立していた豊臣秀頼を説得し、二条城の地で家康との会談を実現させました。彼が両家の和解に向けて尽力していたのは言うまでもないですが、一方でこの会談においても「徳川の家臣」という立場は崩さず、そこについて芯がブレることはありませんでした。
突然の死と、彼の残した大きな課題
しかしながら、会談から帰国する清正を悲劇が襲います。彼は帰国の途で病気を発症し、帰国後間もなくの時期に亡くなってしまったのです。死去のタイミングが絶妙であったことから、二条城で毒まんじゅうを食わされたことによる暗殺説など、彼の死をめぐってはさまざまな俗説が流れました。もっとも、その実態は一般的な病死であったとも言われています。
領国統治の途上で亡くなってしまった清正は、死後に大きな課題を残すこととなりました。彼の跡を継いだ加藤忠広は11歳で熊本藩主となったことに加えて資質も今一つであったと伝わっており、藩内は大きく混乱してしまいます。
そして最終的には寛永9年(1632)に改易処分を下されてしまい、加藤家は大名としての地位を失ってしまうのです。
【参考文献】
- 『国士大辞典』
- 荒木精之『加藤清正』(葦書房、1989年)
- 安藤英男『加藤清正のすべて』(葦書房、1993年)
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(学研パブリッシング、2009年)
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