「福島正則」関ケ原で大活躍を見せるも、不遇の晩年を過ごした武辺者
- 2019/10/11
福島正則(ふくしま まさのり)といえば、やはり豊臣家の重臣ながら関ケ原では東軍の勝利に大きな貢献を果たした人物というイメージが一般的でしょう。彼の武勇は高く評価されており、戦国後期きっての猛将として語られることも多いです。
しかし、その一方で彼の出自や武勇以外の面、不遇の晩年などはそれほど知られていないように思えます。そこで、この記事では「武辺者」というだけではない正則の生涯を解説していきます。
しかし、その一方で彼の出自や武勇以外の面、不遇の晩年などはそれほど知られていないように思えます。そこで、この記事では「武辺者」というだけではない正則の生涯を解説していきます。
【目次】
低い身分から戦で名を上げ、賤ケ岳の地で大活躍
永禄4(1561)年、正則は尾張国に生まれました。父は福島正信という人物であると目されていますが、そもそも彼の実子ではないという説も存在するなど、彼の出自にはあいまいな点も非常に多いのが特徴です。父はそれほど高い身分の武将ではなかったと推測されますが、一応羽柴秀吉に仕えていたようです。
これも確定はできませんが正信が秀吉の縁者であったという関係性からか、正則は幼少期より秀吉に仕えるようになります。
彼はすでにこの時分から武勇の面で秀でた才能を発揮していたようですが、青年期にあたる天正6-10年(1578-82年)の間には、播磨国の三木城攻め・因幡国鳥取攻め・山崎の戦いなどに従軍して戦功を挙げ、秀吉よりこれまでの知行2百石から3百石の加増を受けました。
すでに武勇を評価されていた正則ですが、その名を決定づけたのが天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いにおける活躍ぶりでしょう。彼は先手として敵陣に突入すると、これまで織田家を支えてきた老将たちを打倒。のちに「賤ケ岳の七本槍」と称される若侍たちの筆頭として戦場を駆け回り、戦後には七本槍の中でも最多となる5千石を与えられました。
こうして賤ケ岳での勝利によって天下をその手に近づけた秀吉は、続いて徳川家康と織田信雄という二人の強敵と対峙します。ここに小牧・長久手の戦いが勃発し、正則は苦戦の末に二重堀という羽柴軍の本拠から秀吉が撤退していく際の引き口で戦功を挙げました。
ついに大名となり、平時には検地や兵糧の管理も担当
眼前の大敵をひとまず退けた秀吉は、続いてかねてより信長・秀吉の悩みの種であった根来雑賀衆攻めに乗り出します。ここでも正則は和泉国の畠中城攻めに功績を挙げ、彼への評価は高まるばかりでした。天正13(1585)年には秀吉が関白に任じられ、その栄達に乗じる形で正則も従五位下・左衛門尉という称号を与えられることになります。そして二年後の天正15(1587)年には秀吉より伊予国11万石を与えられ、今治城主として大名の座に就くこととなりました。
なお、この決定を知らせる際に秀吉は朱印状で「大名・統治者の心得」を正則に与えており、ここからは武勇先行で知られていた正則に優れた統治者となってもらいたいという秀吉の心遣いが散見できます。
大名となった時期には秀吉の九州征伐に従軍し、詳細こそ不明ですが何かしらの功を挙げたという記録が残されています。戦後は佐々成政が統治に失敗した肥後国の反乱を鎮めるべく兵を出し、これを完遂すると検地事業に従事しました。ここで彼は肥後の代官および検地奉行という役職を任されており、その活躍が軍事のみにとどまらないことがわかるでしょう。
天正17(1589)年には命令に従わない北条氏の振る舞いに秀吉が腹を立て、ついに翌年には小田原征伐が実行されます。
「戦国オールスター」とも呼ぶべきそうそうたる討伐軍の中に正則も組み込まれ、織田信雄を大将として伊豆国韮山城の攻略を命じられました。
正則は先手として韮山城に突撃しましたが、ここには北条一の猛将と呼ばれた北条氏規が籠っており、易々と落とせる代物ではありません。必然的に持久戦の様相を呈しましたが、韮山城以外での戦局が北条氏の不利を悟らせるものばかりであったため、最終的に氏規は城を自ら明け渡しました。
そして、文禄1-2(1592-93)年の文禄の役に際しても朝鮮の地へ降り立ちましたが、ここでは竹島の代官や兵糧輸送の担当などやや地味な役回りが多く、基本的には守備隊として渋い貢献を見せています。ただ、動きの少なかった正則軍は朝鮮ゲリラの猛攻にさらされることになり、同じく七本槍の加藤清正が大活躍を見せていたことを思えば少し物足りない遠征であったかもしれません。
しかし、帰国後の文禄4(1595)年には尾張国24万石に領地替えとなり、清洲城の城主に任じられています。
秀吉の死後は反三成の急先鋒として関ケ原の勝利に貢献
慶長3(1598)年に秀吉が没すると、徳川家康と石田三成の間でにわかに後継者争いの機運が高まっていました。正則はかねてより三成との仲が悪かったために、やがて反三成の急先鋒と目されるように…。他の武将たちと結託して三成の暗殺を計画するなど、秀吉子飼いの武将でありながらその対立は決定的なものであったと言われています。
しかし、正則は豊臣家に対する恩を忘れていたわけではないようで、「豊臣家の将来のために家康に付く」と発言して東軍に属したというエピソードが残されています。
結果的に家康は豊臣家を滅ぼすことになってしまうので、こうした見当違いな目論見が原因で「短慮」と分析されてしまうことが多いのでしょう。
慶長5(1600)年、正則は家康に従って会津征伐へと出向くと、そのすきを狙って三成を総大将とする西軍が挙兵。ここで家康は軍議を開き、三成に敵対するのか否かを改めて問いかけました。
すると、率先して三成攻撃を主張したのは、秀吉の子飼いとして豊臣家に大恩があるはずの正則でした。彼が声高に主張を繰り広げたことによって諸大名もこれに賛同したと伝わっており、関ケ原を語るうえで欠かせないエピソードとして現代でも語り継がれています。
正則は西上すると尾張の清洲城に入り、出陣の要請を受けて果敢に出撃していきました。彼は美濃の竹鼻城を落とすと、その勢いのままに織田秀信が籠っていた岐阜城を襲撃。この際の福島軍はすさまじい勢いを誇っていたようであり、先手として城内に踏み込むと敵勢をたちまち大混乱に陥れました。
最終的に秀信は降伏して城を明け渡しましたが、ここで正則と同じく攻略を担当していた池田輝政の間に先んじて城へ入ることをめぐって功績争いが発生してしまったようです。最終的には他武将の仲裁によって正則が一番乗りを果たしていますが、剛健な彼らしい逸話として知られています。
その後、関ケ原本戦にも参加した正則は、先陣として宇喜多軍と激戦を繰り広げます。
最終的に彼らを撃退した正則は、続いて陣内で孤立しつつあった島津義弘軍を包囲し、義弘こそ取り逃がすものの敵軍をほぼ壊滅させるという大功を挙げました。
この働きぶりは家康からも最大級の評価を受け、正則は部下が同じく東軍に属する伊奈昭綱の検問でトラブルを起こした際にその始末に激怒し、彼を切腹に追い込んでもなお許されるほどのものでした。
芸備入国
戦後の正則は、論功行賞で20万石近い領地を与えられ、西軍に属した毛利輝元に代わり、広島城の城主として江戸時代を迎えます。正則が家康から毛利氏の旧領を与えられたのは、彼が徳川と毛利の間を取り持ったこと、および、領地を接する毛利輝元を監視する役目を負わされる意味があったとか。ちなみに戦後の毛利は周防・長門の2ヶ国に減封となっています。
正則は芸備(安芸国と備後国のこと)に入国すると、さっそくこの地の整備に乗り出しました。領内を巡視したのち、地方行政をまとめるために各郡に代官を置いたり、要地に有力家臣を配して新たに城を築くなどしています。
また、福島藩の知行システムは極めて中央集権が容易なものであったことが知られています。さらに領内から徴収する年貢率に関してもかなり良心的な措置を講じるなど、粗暴なイメージとは裏腹に善政を敷いていたことが正則の特徴です。
このほか、寺社仏閣やキリシタンの保護についても積極的で、民衆からの評判にはかなりのものがあったようです。
普請の手伝い
一方、徳川家の家臣として幕府主導の普請工事にも参加しており、篠山城や名古屋城の建築に貢献しています。ただし、正則は諸国の経営に手いっぱいの大名たちにこうした普請を担わせるのは酷だと感じていたようで、「これではあんまりだ」と苦言を呈しています。しかし、家康はこの苦言を耳にすると、「不満があるなら国もとへ帰って戦の準備をすればいい」とこれを撥ねつけており、彼らは黙って幕府に従うほかありませんでした。
大阪の陣
しかし、こうして幕府に従うことをよしとしなかったのは正則とも縁の深い豊臣家でした。彼らが度重なる家康の妨害に耐えかねて開戦の動きを見せ始めると、正則は豊臣につくことを警戒した家康の手によって江戸城の留守役を任されています。こうして慶長19-20(1614-15)年の大阪冬の陣・夏の陣において、正則が秀頼の味方をすることこそなかったものの、豊臣家は滅亡。豊臣の旧恩と徳川の新恩の狭間で悩んでいた正則はきっと落胆したことでしょう。
改易処分で不遇な晩年を送る
そして、まるで元来の主家と運命を共にするかのように、元和3(1618)年には正則もまた改易処分の憂き目を見てしまいます。その理由は、春の長雨によって広島城および城下が大損害を受け、その修繕を行ったことでした。もちろん修繕自体は必要なことでしたが、甚大な被害を前に修繕を急いだことで「城の修復に必要な許可を得ていない」ということが幕府によって咎められてしまいます。
さらに、「本丸を除き城を破棄すべき」という沙汰が下ったにもかかわらず、これに対して不十分な形での破棄にとどめたことも原因となってしまいました。
最終的には信濃国川中島高井郡・越後国魚沼郡の地にわずか4万5千石を与えられ、彼は家督を譲り出家したのち、高井郡に居住して余生を過ごしました。
最終的に寛永元(1624)年に高井野の地で64歳の生涯を終えています。粗暴な一面も持ち合わせたものの、武勇で天下に名をとどろかせた関ケ原の功労者としては、あまりに寂しすぎる最期を迎えてしまったのです。
【参考文献】
- 『国史大辞典』
- 福尾猛市郎・藤本篤『福島正則:最後の戦国武将』中央公論新社、1999年。
- 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
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