加藤清正の名言・逸話22選
- 2021/10/29
さらに、築城や治水の名手としても知られており、近年震災によって被災してしまった熊本城は城郭ファンにも高く評価されています。また、こうしたことも影響して、現在でも熊本では「清正公さん」と呼ばれ高い人気を誇っています。そこで、この記事では清正が残した逸話・名言を整理し、彼の人物像を紹介していきたいと思います。
※史料としては、清正をモデルにした伝記でありながら適宜史料を引用しているため信ぴょう性の高い『清正記』を中心に、清正関係の文書をいくつか参照しています。そのため史料ベースの内容ではありますが、清正に関する伝承や噂レベルのものでも史料に記載があれば掲載しています。
出生から文禄・慶長の役まで
幼少の頃から武勇に長けていた
「清正が10歳のとき、叔父の家に盗賊が押し入り家財を奪っていった。この現場を見た清正はとっさに鬼の面をかぶり、担当を忍ばせ小葛籠(服を入れる網かご)に潜んでいた。盗賊は服が入っていると思い込み小葛籠を盗み出したが、村はずれに来たところで清正が小葛籠から飛び出すと賊の一人を切り捨てた。これを見た他の賊は清正を鬼だと思い、一目散に逃走したという」(『加藤清正公碑』)
山崎の戦でも明智勢の脅威として活躍
「信長亡き後に秀吉と明智光秀の間で勃発した山崎の戦いでは、秀吉より高山右近の働きぶりを監視するように命じられ、その任を果たすとともに自身も明智勢の先兵であった進藤半助を討ち取っている。この働きは秀吉にも高く評価され、清正には感状が与えられている。」(『清正記』)
賤ケ岳で大功を挙げる
「賤ケ岳では近藤新七という剛の者を討ち取ったほか、追撃戦で一番槍として戸波隼人というこれまた剛の者を討ち取ったという。さらに、敵将山路将監の首を取ったとも言い伝えられている。その大功から、賤ケ岳の七本槍の一人として数えられるようになった。」(『清正記』『賤ケ岳記』)
秀吉からは最大級の評価を受けるが、戦功には不満も見せた
「賤ケ岳の大功は秀吉にも認められ、一気に三千石の加増を受けた。これは当時百七十石の下級武士に過ぎなかった清正が大幅にキャリアアップしたことを意味しているが、清正は福島正則が五千石加増されたという事実に不満を露わにした。清正としては、たとえ大幅な加増を受けたとしても、実力がほぼ変わらないと考えていた正則と同等に評価されなかったことを気にしていたのである。」(『清正記』)
武闘派として男らしさを見せることも
「秀吉より肥後への入国を命じられた清正は、小西行長とともに肥後へと赴いた。その際、行長の統治に不満を持った在地の天草衆が一揆を企て、清正のもとに救援の要請が入った。清正はそれに従い天草方と合戦を構えたが、弓を持った相手にあえて槍を投げ捨て、刀で勝負することを要求したという。これはあくまで男らしく飛び道具抜きで戦おうと呼びかける目的があったと思われる。」(『清正記』)
文禄・慶長の役から関ケ原合戦まで
清正は朝鮮でも好戦的に振舞い、行長と対立
「清正は朝鮮に上陸するとさっそく戦果を挙げ、秀吉に対して『朝鮮は弱国で、一戦にも及ばず1500人余りを討ち取ることができた。』と書き送っている。しかし、この路線は極力温和にことを運びたかった行長の姿勢と相反するものであり、しだいに対立が深まっていった。」(『清正公高麗陣覚書』)
現地在住の日本人と接触し彼を重宝した
「清正軍は快進撃を続け、朝鮮国境を越えてオランカイ(現在のモンゴル高原付近)まで侵入した。その際、「後藤」と名乗る日本人と接触した。後藤は当地の地理に明るく言葉も通じたため、清正は彼に「則二郎」という名を与えて重宝したという。」(『清正公高麗陣覚書』)
伝説となっている「虎狩り」
「清正は朝鮮の地で虎狩りに勤しんでいたことがよく知られている。その内容は虎に家臣を殺されたことに腹を立てた清正が、自慢の槍で次々と虎を狩り、武勇を知らしめたというものである。」(『絵本太閤記』)
この虎狩りの逸話は現代の研究では清正が行なったものではなく、黒田長政とその配下の家臣が行なったという説が有力になっています。
また、虎狩りを行なっていた武将は他にもいるものの、絵で描かれているように槍や日本刀で部下のために戦うというのは一般的ではなく、秀吉の命令で鉄砲を用いて戦っていた可能性が高いという事も指摘されています。
三成との不仲を公言して憚らなかった
「三成は朝鮮からの早期撤退を強く望んでおり、戦を継続しより良い講和条件を引き出そうとする清正とは激しく対立した。この朝鮮出兵をめぐる対立は二人の仲に決定的な溝を生みだし、清正は『三成とは一生涯仲直りすることはないだろう』と口外している」(『清正記』)
当初の勢いが鈍ったのちは大いに苦戦したものの、決死の覚悟で耐え抜いた
「清正軍の快進撃も長くは続かず、しだいに敵軍の勢いに押されるようになった。しかし、講和条約は決裂してしまったため、清正は決死の覚悟で朝鮮に布陣し続けた。兵士たちも次々に倒れ、人肉を食べる者が描かれるほど悲惨な状況であった。これには、清正も『救援が来なければ決死の覚悟である』と書き送っている。」(『浅野文書』)
関ケ原合戦から最期まで
西軍からの出兵要請を断る
「関ケ原合戦の開戦時には熊本に帰っており、みだりに出兵することを避けた。その際毛利方より出兵を要請する使者が届いたが、清正は大和一国を報酬として請求したために交渉が決裂している。」(『藩翰史』)
家康に従うも豊臣方への恩義を忘れることはなかった
「家康は清正を懐柔すべくさまざまな策を講じ、こうした家康の姿勢を受けて彼の腹心であった犬山城城主の成瀬正成が『さぞや光栄であろう』と清正に語った。しかし、清正は『確かに光栄なことだが、太閤(秀吉)様の御恩は忘れられないので、秀頼公のためにならないこと以外であればお力添えするつもりだ』と、あくまで豊臣への恩義を優先していた。」(『烈公閑話』)
江戸に参上しなかった理由も豊臣への忠義が原因だった
「関ケ原合戦の後、天下の趨勢が決定したことで諸大名は続々と家康のもとへと参上した。しかし、そうした状況のさなかにも大坂へ伺うことを辞めない清正に対して、家康は『江戸には参上しないのに大坂には参上するとはどういうことか』と問い詰めた。それに対して、清正は『大坂を素通りするのは太閤の御恩を考えればもってのほかであり、参上しないのは人の道を外れている』と言い放った。これには、家康も苦笑いするしかなかったという。」(『駿河土産』)
理不尽にも思えた公役にも耐え忍んだ
「家康は外様大名の財力を奪おうと、過剰なまでに公役(家康から諸大名に命じられた各種工事)を課した。これに憤慨する福島正則に対し、清正は『不平があれば国に帰って戦争の準備をしたらどうか。それができないならば、工事に励むほかないだろう』と語り、自身にとっても厳しい公役をじっと耐え忍んだ」(『続本朝通鑑』)
二条城の会談の際には、短刀を忍ばせ秀頼を護った
「晩年の家康は、上洛して秀頼を二条城へと呼び出した。この目的は秀頼を監視下に置くことであったが、豊臣方では秀頼の誅殺を警戒して反対の空気が漂っていた。しかし、呼び出しに応じないことはすなわち徳川に宣戦の口実を与えることを意味していた。そこで、清正と彼の盟友の浅野幸長が秀頼の警護役として上洛に付き添った。この際に清正は胸元に短刀を忍ばせており、『これで太閤の御恩に報いることができた。この刀はまだ幼いころに褒美として授かったものであり、秘蔵の名刀であった。』と語っている。」(『藩翰譜』)
その他の逸話・名言
秀吉とは実家が隣り合わせであり、単なる主従関係とは一線を画していた
「清正が生誕した中村の家は、秀吉の実家と隣り合わせであった」(『人民雑記』)
「諸侯が列している中で、秀吉は清正をいとこのようなものであると語った」(『続明良洪範』)
「秀吉は『清正ならば豊臣姓を名乗っても差し支えない』と語った」(『清正記』)
律儀な人物
「清正に仕えた医師の江村専斎は、清正を『律儀であった人』と称している。」(『老人雑談』)
人に恥をかかせるのを良しとしない
「清正は人に恥をかかせることを嫌い、家臣の粗相に関しても客人の前では弁明してやったという。」(『続明良洪範』)
人命を大切にする実直な一面もあった
「清正が渡海した際、荒れ狂う海に船が覆りそうになった。船頭たちは『祈祷がきかないので人身御供をするほかない』と主張したが、清正は『人の命に貴賤はなく、自分が生きるために他人の命を犠牲にしてはならない』と言ったという。」(『日本智嚢』)
法華経の熱心な信者だった
「清正は法華経を熱心に信仰していたことでも知られている。妻の伊都や、実家の中村氏も熱心な法華経の信仰があり、清正もそれらにかなりの影響を受けている。また、賤ケ岳の際には、豪傑として名を馳せていた清正でさえも敵を目前に思わず目をつぶり、咄嗟に法華経の題目を唱えるほどであった。」(『甲子夜話』)
築城・治水の名手で、後世の災害にも耐えうるインフラを整えた
「清正の没後200年後、肥後を未曾有の大雨が襲った。その際に清正が造った堤防がついに決壊したという知らせが入り、庄屋(現代の村長にあたる)が現場に急行した。すると、決壊したはずの堤防は二重構造になっており、もう一つの石垣がしっかりと洪水を防いでいた。」(『風説秘記』)
まとめ
ここまで、清正の逸話や名言を紹介してきました。清正が造り上げた肥後藩は江戸時代初期に改易されてしまい細川氏が転封されてきますが、細川氏は加藤氏の遺構を無理に我流にすることなくそれらを維持し、領民もまたそれを支持しました。それゆえに、現代でもある程度信ぴょう性のある史料が残されているという特徴があります。また、全体的な外観としては、武勇に優れ豪胆な人物でありながら、同時に清廉潔白で実直な人物像が浮かび上がってきます。こうした人間性は生前でも後世でも高く評価され、江戸時代以降は理想的な武士像として清正をモデルにすることもあったようです。
また、明治の日本陸軍で大将を務めた乃木希典も清正の影響を強く受けていたことで知られており、彼の人間性や価値観には清正らしさを感じる部分もあります。
しかし、こうして尊敬を集める人物の評価を知るうえで気を付けなければならないのが、清正の人間像が過剰に優れた人物として描かれている可能性が高いという事です。実際に、今回の記事で使用した史料はその大半が後世に書かれた二次史料であり、もともと存在した清正像をさらに補強する形で描かれていた形跡も確認できます。「虎狩り」の逸話はその代表例でしょう。
このような点から、清正の逸話を全て鵜呑みにするのには問題があります。ただし、「火のないところに煙は立たない」ということわざもあるように、清正に数多くの優れた部分があったことは恐らく事実でしょう。
清正は大坂の陣開戦の直前に亡くなりますが、五体満足であればその後の歴史もまた変わった形になっていたかもしれません。
【主な参考文献】
- 古橋又玄『清正記』肥前島原松平文庫、成立年不明。
- 安藤英男編『加藤清正のすべて』新人物往来社、1993年。
- 北島万次『加藤清正:朝鮮侵略の実像』吉川弘文館、2007年。
- 国文学研究資料館デジタルライブラリー 閲覧日2019年3月16日。
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