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銅像もある!加藤清正と名古屋城の関わりとは?
- 2023/06/09
加藤清正とは?
加藤清正は最強とも言われる戦国武将。猛将として知られ、戦で大活躍をしたことはほとんどの方がご存知だと思います。豊臣秀吉に使え、忠臣であったことも知られていますが、加藤清正は意外にも関ヶ原の戦いには参戦していませんでした。実は九州で謹慎中だったこともあり、参戦することができなかったと言われています。
関ヶ原の戦いの後、豊臣家は大名にされてしまいますが、加藤清正は秀吉の子秀頼にも忠実に使えていました。家康と険悪になった秀頼との間に入り、和解させるために会見に随行するなど尽力しましたが、その帰路で体調が悪化し突然亡くなってしまいます。
突然の死であったことから、家康が毒を盛ったのでは?という説もあるほど。もし加藤清正が長生きしていたら、大坂冬の陣や夏の陣はおこらなかったのではとも言われています。
加藤清正は築城名人
そんな加藤清正ですが、秀吉への忠義や戦での活躍のほかに、築城の天才としても名を馳せています。藤堂高虎、黒田官兵衛とともに「三大築城名人」と呼ばれ、名護屋城、指月伏見城、熊本城、麦島城、宇土城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わりました。
最高傑作?熊本城
加藤清正が築き、実際に居を構えていたのが熊本城です。
熊本城には「清正流石垣」という石垣があり、下部から上部にむけて急な反りが付いています。この反りで敵を振るい落とすという実戦で高い防衛力を発揮できる、難攻不落の要塞となっているといいます。石垣の無い西側には堀があり、やはりこの掘も超えて来ようとする敵を狙えるように作られたもの。
実際にここで戦闘が起こることはなかったのですが、西南戦争時には新政府軍がここに籠城し、西郷隆盛がこの城を攻め落とそうとしました。しかし熊本城の高い防衛力に苦戦し、「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と敗走せざるを得なかったと言います。
それほどに加藤清正の築城技術が優れていたともいえるでしょう。
名古屋城での仕事
加藤清正は築城の名人として当時から知られていたため、徳川家康に名古屋城築城のために呼ばれました。慶長15年(1610)のことです。そして諸大名とともに、名古屋城の天守閣の石垣を積み上げるという仕事を担いました。そして、これほどの仕事を、わずか3ヵ月で成し遂げた、と言われています。
本丸東門桝形石垣には「清正石」、大天守石垣の東北隅の北面には「加藤肥後守内小代下総」の刻印が残っていると言われています。(諸説あり)
また、名古屋城にはこれに関連して2つの加藤清正の像が建っています。
加藤清正像
こちらは能楽堂前にあり、名古屋城に入らなくても見ることができる銅像です。威厳がある武将らしい像ですね。
清正公石曳きの像
そして現在でも二の丸近くにあるため目に留まる「清正公石曳きの像」も作られました。この像は、巨石を運ぶ時に清正自ら石の上に乗り音頭をとった様子を模したものと言われています。
痕跡が多く残ることから、名古屋城築城に加藤清正が大きな役割を担ったことも見て取れますね。
名古屋城は石垣にも注目!
今回は名古屋城に残る像から、加藤清正の築城と功績などをご紹介してきました。名古屋城はもちろん名古屋を代表する観光スポット。入場料はかかりますが、中に入って名古屋城をじっくり眺めたり散策するのも楽しいかもしれません。その際には、石垣もぜひチェックしてみて下さいね。
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