「鵜殿長照」は、家康との不思議な因縁を多く持った武将だった!

鵜殿氏の本拠城だった上ノ郷城跡(出典:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E3%83%8E%E9%83%B7%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
鵜殿氏の本拠城だった上ノ郷城跡(出典:wikipedia
大河ドラマ『どうする家康』は初回から大きな時代の転換点を迎えています。家康の桶狭間の戦いにおける役割も描かれています。その際に登場したのが大高城にいた鵜殿長照(うどの ながてる 演:野間口徹さん)です。

 瀬名姫こと築山殿とも交友関係がある鵜殿氏は、家康の三河・遠江征服において大きな障害となっていきます。今回は鵜殿長照の生涯とともに、なぜ家康と多くの因縁を持つことになったのか、を考察していきたいと思います。

鵜殿氏は今川一門の名家

 鵜殿氏は熊野別当・湛増(たんぞう)の子孫を祖とすると伝わっています。湛増は紀伊国熊野の水軍で、源義経が壇ノ浦の戦い(1185)の際に協力を要請した相手として知られています。その子孫の1人が紀伊国・新宮にある鵜殿村(現在の和歌山県新宮市)を領地としたため、鵜殿を名乗るようになったといい、熊野別当家が三河国に移る際には、一緒に三河にやってきたとされています。

※参考:鵜殿氏系図
※参考:鵜殿氏系図

 鵜殿氏は上ノ郷城を本拠地とし、下ノ郷や府相、柏原(いずれも愛知県蒲郡市)などを領有していました。同氏の状況が大きく変わったのが長照の父である鵜殿長持の代です。長持は今川義元の妹を正室に迎え、近隣で強い影響力を持つようになっていきます。

 長持と義元の妹が婚姻した時期については諸説あります。『寛政重脩諸家譜』によれば、竹谷松平氏の松平清善の項目に

「鵜殿太郎長照は清善の異父兄なりといへとも」

と記されているので、義元の妹は松平清善の父・親善に嫁いでいた可能性があります。

 この場合、松平親善は享禄4年(1531)に亡くなっているので、その後の婚姻ならば同年以降となります。義元の妹であるため、年齢は義元生年の永正16年(1519)以降となります。歳の差婚な上に嫁げる年齢とは思えません。

 享禄4年(1531)年前後の時期は、今川・松平両氏にとって大きな動きのある時期でした。今川氏はこの翌年から今川氏輝が親政を開始し、母の寿桂尼から権力を継承する時期でした。一方で松平氏は清康が当主となり、岡崎攻めを開始した時期となります。清康はその後の三河統一に向けて今川氏と対立し、氏輝は三河での勢力拡大を放棄して甲斐の武田氏を攻めています。

 そのため、もし竹谷松平氏との婚姻と出生順が事実なら、名目だけの婚姻が行われていたと考えた方が良いでしょう。その後、三河で最低限の勢力維持を維持しようとした今川氏輝が鵜殿氏との再婚を進めた可能性が高いと考えられます。

 清康は記録上、鵜殿氏の上ノ郷周辺に出兵した記録はありません。今川氏との決定的な対立を避けるため、血縁の鵜殿氏攻めは後回しにした可能性も考慮する必要があるでしょう。

鵜殿長照の誕生と今川氏における役割

鵜殿長照の誕生年について

 長照の生年はわかっていません。天文13年(1544)に連歌師の宗牧を出迎えたのが長照の史料上の初登場になります。

 先述の父・長持と母の婚姻時期を考えると、天文元年(1532)生まれであれば、数えで14歳となり、元服していてもおかしくない年齢になります。その場合、母親である義元の妹が最大でも12歳での出産となるので、北条氏康の正室である瑞渓院より年上の義元の姉であった可能性もあるといえるでしょう。実際は元服がもう少し前で、母親が15歳前後と考えるのが妥当で、そうなると生年は天文3年(1534)頃だったのではないかと推測されます。

 いずれにしても、天文13年(1544)に史料上現れた長照は、今川義元の甥という血縁から東三河における今川氏の要人だったと言えるでしょう。

家督継承

 長照が家督を継いだのは、父の長持が死去した弘治3年(1557)か、その少し前と思われます。というのも天文21年(1552)年時点では長持が遠江国本興寺(静岡県湖西市)本堂の建立に際し寄進をしているからです。

 本興寺は鵜殿氏から住職が多数輩出され、室町時代後期に鵜殿氏が奉納した『源氏物語』の写本も存在しており、結びつきの強い寺院です。当時の住職は日禮という人物で、長持の従兄弟にあたる人物です。

 この家督継承と前後して、長持の弟である鵜殿長祐が死去しています。長祐は柏原鵜殿氏を継いでおり、その跡継ぎには長照の弟の長忠が入っています。長照の妹は「お田鶴の方」と呼ばれ、曳馬城主の飯尾連龍に嫁いでいます。

 こうしたことから本興寺の件も含め、東三河や遠江に対して今川氏血縁の鵜殿氏がもつ影響力が拡大していることが伺えます。

 長照が家督を継承した時期は松平氏に対する今川氏の支配も強化され、周辺の有力領主とも友好関係が構築できており、長照にとって安泰な時期だったことが推測されます。

桶狭間合戦で、家康に助けられる長照

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにいたるまでの今川氏の尾張遠征において、家康が命じられたのが大高城への兵糧入れでした。この当時、大高城にいたのが鵜殿長照です。

 長照について、今川義元の後を継いだ氏真は6月12日に書状を送っています。これは三河における氏真が送った最初の書状であり、鵜殿氏が三河で最も重要な立場にあったことを示しています。

 この書状では「昨年10月」と「5月19日」の戦いにおける戦功を称賛するものとなっています。5月19日は桶狭間の戦い当日であり、家康が大高城に兵糧を運びこんだ日です。

 大石泰史氏は『今川氏滅亡』の中で、この書状を永禄2年(1559)10月から桶狭間の合戦後まで、鵜殿氏が大高城に在城を続けた証と考察しています。つまり、家康が兵糧を運んで助けた相手が鵜殿長照だと言えます。

 桶狭間での敗戦をうけ、長照は大高城から上ノ郷に撤退。その後も今川氏真に従います。氏真が三河で最初に書状を出したのが鵜殿長照だったことを考えても、東三河の安定化を鵜殿氏に求めたと考えていいでしょう。しかし鵜殿氏は三河の安定化に動く余裕を失っていました。家康が永禄4年(1561)4月には牛久保城を攻め、今川氏に対抗する姿勢を見せると、家中が分裂することになるのです。

人質交換で、家康に討たれる長照

 鵜殿氏は上ノ郷の長照と柏原の弟・長忠の親今川派(今川血縁)と、下ノ郷の長龍と府相の実成が家康方に属して対立することになりました。これは一族の血を残すためだった可能性もあります。長照は同年8月に岡崎からの敵を撃退したことを氏真に称賛されています。この時期に家康が戦ったのは長沢城(愛知県豊川市)での戦いなので、長沢城への援軍に長照が駆けつけないよう、一部の部隊が上ノ郷に攻めこんだ可能性があります。

 そして翌永禄5年(1562)、家康は駿府にいる正室の瀬名姫(築山殿)と子どもを人質交換すべく、鵜殿長照を攻めました。この攻撃を受けて長照は討死するのです。

 長照を討ったのは伴与七郎という人物であることが家康の感状に記されています。長照の息子である氏長・氏次兄弟は捕虜となってしまい、人質交換に利用されたと伝わっています。本家鵜殿氏は事実上滅亡し、残った鵜殿氏は家康の家臣となったのでした。

その後の鵜殿氏

 上ノ郷を攻めた家康に服属した柏原の鵜殿長忠は義理の娘を人質にさしだし、家康の初めての側室である西郡局となっています。彼女は督姫を生んだため、後に池田輝政に嫁ぎ、姫路藩にその名が残ることになりました。

 『寛政重脩諸家譜』によると、西郡局の弟にあたる長次は、池田氏に嫁いだ姉に従って池田氏に仕えています。長次は妻に下ノ郷の鵜殿玄長の娘を迎えており、この柏原鵜殿氏が実質的な鵜殿本家になって後世に名前を残しています。

 長照の子である氏長・氏次については永禄8年(1565)に氏真が戦功を賞した感状で「鵜殿三郎」の存在が確認できます。これは息子の氏長のことで、1月20日の渥美半島での合戦によるものです。しかし、三河における松平優位は前年には確立しており、三河各地に家康が所領の安堵などを進めていました。領地を失った氏長は永禄11年(1568)2月には家康の家臣として弟の氏次(藤九郎)とともに知行安堵を家康から受けています。

 二俣城に在城した後、氏長は関東移封で1700石の領主となり、大坂夏の陣でも従軍が確認されています。一方、弟の氏次は関ヶ原の戦いの前に勃発した伏見城の戦いで鳥居元忠に従って奮戦し、討死しました。

 氏長・氏次とも実子はなく、小笠原藤右衛門の子が氏信として養子に入って名を継いでいます。氏信は大久保忠世の弟である大久保忠為の娘を妻とし、家は3代ほど続きましたが宝永年間(1704〜1711)に断絶しています。そのため、氏照の血は現在に伝わっていないということになります。

おわりに

 おそらく今川義元は、三河の支配体制を東を鵜殿、西を松平とすることで安定させようとしていたと推測されます。鵜殿長照は母が義元の妹であり、甥にあたります。一方、家康には瀬名姫が嫁ぎ、こちらも今川氏の血縁となっています。もし桶狭間の戦いで義元が討死しなければ、この両者による三河の安定化がなされ、今川義元の支配は盤石となっていたでしょう。

 しかし、桶狭間で義元が討死したことで未来は大きく変わりました。結果として家康は独立を図るようになり、そのために今川氏と対立することになりました。東三河の統一において最大の障害となったのは、今川義元を伯父とする鵜殿長照だったのです。

 桶狭間合戦のときに助けた人物が、その後に最大の障害になる。長照の妹・お田鶴の方も一緒ではありますが、結果として鵜殿氏と家康とは不思議な因縁が多く生まれた関係となりました。ほんの少しのめぐり合わせが、盤石だったはずの一族の命運を変えてしまう…。鵜殿氏はまさに、その典型と言える一族なのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『愛知県史』(2001年~2003年)
  • 『蒲郡市史』(2006年)
  • 大石泰史『今川氏滅亡』(2018年、角川書店)
  • 冠賢一「戦国期日蓮教団の展開 ー遠州鷲津本興寺と鵜殿氏ー」「印度學佛教學研究第22巻第2号(1974年)
  • 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 蒲郡市HP 上ノ郷城跡について

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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