「大高城兵糧入れ(1560年)」家康、桶狭間の前哨戦で今川軍先鋒として危険な任務に挑む!
- 2023/01/10
大高城兵糧入れとは、桶狭間の戦いの際に今川方に属した松平元康(のちの家康)が、今川方の拠点・大高城に兵糧を無事に運び込んだ任務を指します。
大高城は敵の織田陣営に深く入り込んでおり、今川方にとって最前線だったゆえに兵糧入れは極めて危険でした。今回はその兵糧入れにフォーカスしていきます。
大高城は敵の織田陣営に深く入り込んでおり、今川方にとって最前線だったゆえに兵糧入れは極めて危険でした。今回はその兵糧入れにフォーカスしていきます。
家康の桶狭間参戦とその背景
永禄3年(1560)5月に勃発した桶狭間の戦いといえば、織田信長が今川義元に奇跡的な大勝利を収めた合戦で知られています。松平元康(のちの徳川家康)は今川方の将としてこの合戦に参加しており、信長とは敵対関係にありました。というのも、家康は幼少のころより今川の人質に出されており、そもそも家康の一族である松平家自体が今川の従属下に置かれていたからです。
桶狭間合戦を仕掛けたのは今川のほうでした。当時の今川家は既に駿河・遠江・三河の3国を有し、しかも北の武田信玄や東の北条氏康と三国同盟も結んでいたため、向かう先が西に絞られていたのです。
尾張への大行軍
5月10日、いざ今川軍が駿府から桶狭間に向かって出陣すると、家康は千余の軍勢を率いて先鋒を務めることになります。家康は三河国の将であり、松平氏の拠点の岡崎城も尾張に近かった点や、元々人質で今川家中での立場が弱かった点から、先鋒を命じられるのは仕方なかったのでしょう。大高城の兵糧入れを任されたのも同様の理由と考えられます。
一方、義元本隊は12日に時間差で大軍勢で駿府を出発、桶狭間合戦前日の18日には沓掛城に入って軍議を開き、以下のように攻撃部署を定めています。
- 松平元康 :丸根砦の攻撃隊
- 朝比奈泰朝 :鷲津砦の攻撃隊
- 阿部元信 :鳴海城の守備
- 鵜殿長助長照 :大高城の守備
- 義元本隊 :清須方面への進撃を計画
- 浅井政敏 :沓掛城の守備
元康は先鋒として丸根砦攻めを任されることになっています。丸根砦は信長によって前年に鷲津砦とともに築かれており、今川の尾張国侵攻の阻止、および大高城と鳴海城の間を遮断するという役割がありました。信長家臣の佐久間大学盛重が守備しています。
なお、『徳川実紀』によれば、家康はこの大行軍の最中、3歳のころに生き別れた母・於大の方に会うため、ひそかに彼女の再嫁先の尾張国阿久居の久松俊勝の館を訪ねたようです。
久松勝は織田方の水野信元の家臣でしたが、このとき2人の対面を許し、自分と於大の方との間に誕生した3人の息子(康元、康俊、定勝)を元康に引き合わせたといいます。この母子対面は17日とされていますが定かではありません。
ちなみに俊勝の3人の子は元康の異父兄弟にあたります。元康はのちに三河国の統一を果たした際、この3人の弟を呼び寄せてともに働きたい旨を於大の方に伝えたといいます。
大高城への兵糧入れ
実はこの軍議で元康は、丸根砦攻めと同時に鵜殿長照の守る大高城へ兵糧を運ぶという任務も命じられていました。大高城は上記の地図でもわかるように熱田にも近く、織田陣営に深く入りこんだ今川方最前線の拠点でした。ここに兵糧を入れるのは至難であり、松平家臣の中には今川の加勢を求める声もあったほどです。
しかし元康はこうした意見を退け、同日夜の間に奇計をもって兵糧入れを無事にやりとげます(『信長公記』『神君御年譜』)。この決死の大高城兵糧入れは、後世にも語り継がれる武功となったのです。
ところが、この兵糧入れの時期に関しては史料によって多くの食い違いがあり、以下のように4つの年次が存在しています。
- 永禄3年(1560)説:『信長公記』『甫庵信長記』『松平記』『総見記』など
- 永禄2年(1559)説:『家忠日記増補』『武徳大成記』『落穂集』など
- 永禄元年(1558)説:『三河物語』
- 弘治3年(1557)説:『伊束法師物語』
識者からみて弘治3年(1557)と永禄元年(1558)説は時期が早すぎるのもあり、信憑性が低いとされているようですね。そして残りの永禄2年(1559)と永禄3年(1560)説が有力視されています。
ちなみに当記事では『信長公記』にある永禄3年(1560)説を前提としています。
桶狭間決戦時、家康は何をしていた?
そして翌5月19日早朝、義元本隊は西に向かって出発、今川軍の一斉攻撃を命じて桶狭間の決戦がはじまりました。家康は作戦どおり、早暁に佐久間盛重の守備する丸根砦を攻め、これを苦戦しながらも陥落させ、鷲津砦も朝比奈泰朝の攻撃によって陥落させています。この知らせを聞いた今川義元は戦勝気分に酔いしれていたとか(『信長公記』『伊束法師物語』『三河物語』)。
家康隊は幸運にも義元の命令で鵜殿長照と交替で大高城の守備にまわることになりました。守備を命じられたのは、前日からの大高城兵糧入れで不眠不休であったことや、丸根砦攻めで功を立てたことによります。
以後、家康らは城で休息をとり、のちに義元本隊5000もの兵が勝利して戻ってくることを想定して迎える準備をしていましたが、義元本隊は一向にきませんでした。それもそのはず、午後2時ごろに義元は織田方の奇襲を受けて討ち死にしていたからです。
家康は大高城に置かれたことでまさに命拾いをしたのです。同じく先鋒を務め、義元とともに討ち死にした井伊直盛らとの命運が分かれた瞬間でした。
10年ぶりに故郷の岡崎城へ帰還
主君を討たれた今川軍はちりぢりになって退却を開始しており、義元討死の報が家康に届いたのは夕刻になってからです。叔父の水野信元の使者・浅井六之助が義元の敗死と同時にすぐに大高城を出るように告げてきました。しかし元康は、叔父信元といえども敵の織田方であるために信用せず、義元の死の確証を得るまでは城内に留まっていたといいます。
その後、軍を引き上げて岡崎の大樹寺へと向かいました。
退路の途中で織田方の兵や落ち武者狩りに遭遇しましたが、先導させていた使者の浅井六之助がその都度「水野下野守信元カ使浅井六之助」と名乗りをあげたために襲撃されることもなく、岡崎の大樹寺に入ることができたといいます。(『家忠日記増補』『三河物語』ほか)
到着は同日の深夜。元康は大樹寺のすぐ近くにある岡崎城へ帰参することをもくろんでいました。
岡崎城には今川家臣が入っていましたが、元康は義元の死により、岡崎城の今川兵もやがて撤退するだろうと考えていたようです。その思惑は的中し、5月23日にはついに岡崎入城を果たしたのです。
このとき家康はまだ19歳。6歳の頃より織田、8歳になってからは今川の人質となっていた元康の約14年間もの長い人質生活がここにようやく終ったのです。
【参考文献】
- 本多隆成 『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
- 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
- 小和田 哲男『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
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