「西郡局」今川家臣・鵜殿氏出身の家康側室 ──大河「どうする家康」では気の利く侍女 ”お葉”として登場!
- 2023/03/10
徳川家康の妻といえば、築山殿がすぐ頭に浮かぶかと思います。大河ドラマでは2人はその出会いから丁寧に描かれるのが一般的で、今年の大河「どうする家康」でも例に漏れません。ただ、今回は築山殿以外の女性にもスポットがあてられるようです。
その1人が家康の側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)です。彼女は実家の政治的な立ち位置という意味では築山殿以上に大きな存在でした。今回はそんな西郡局について考察していきたいと思います。
その1人が家康の側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)です。彼女は実家の政治的な立ち位置という意味では築山殿以上に大きな存在でした。今回はそんな西郡局について考察していきたいと思います。
西郡局の出自
鵜殿氏の養女
西郡局は、今川家に仕えた鵜殿氏(うどのし)の出身とされ、鵜殿長忠の養女となった女性です。鵜殿氏は熊野別当・湛増(たんぞう)の子孫を祖とすると伝わっています。湛増は紀伊国熊野の水軍で、源義経が壇ノ浦の戦いの際に協力を要請した相手として知られています。その子孫の1人が紀伊国・新宮にある鵜殿村(現在の和歌山県新宮市)を領地としたため、鵜殿を名乗るようになったとされています。
鵜殿氏は上ノ郷城を本拠地とし、下ノ郷や府相、柏原(いずれも愛知県蒲郡市)などを領有していました。
実親は加藤氏
なお、西郡局の元の家柄は、鵜殿氏の従属化にあった加藤氏と伝わります。実父は加藤義広とされ、義広の父の代までは信濃の三好氏だったと『蒲郡市史』に記されています。信濃の三好氏は詳細が不明ですが、南北朝時代の小笠原長基が文中3年(1374)に四国遠征した際に三好氏初代・三好義長の親族が配下に加わったものと推測されます。
小笠原長基は信濃の小笠原本家ですが、この時期に北朝の一員として阿波小笠原氏支援のため遠征しています。この際、三好義長の親族から彼の配下に加わった者がいたと思われます。信濃国には上田に三好という地名がありますが、こちらは明治21年(1888)直江津線の開業後にできた町なのでおそらく関係ありません。
西郡局の生年
西郡局の生年についてはハッキリしていません。しかし、永禄7年(1564)に家康の側室となり、翌年に督姫が誕生していることので、おおよその推測はできます。家康は天文11年(1543)生まれであり、彼女は家康に敗れた鵜殿氏側から人質として差し出された経緯があることから、家康より年上とは考えにくいです。おそらく天文12年(1544)~天文17年(1549)頃の生まれではないでしょうか。
家康への輿入れ
西郡局の運命が変わったのは永禄3年(1560)の桶狭間の戦いです。周知のとおり、この戦いで織田信長が勝利し、今川義元は討死しています。今川氏は強制的な代替わりによって統治体制の再編成を迫られ、三河に関与する余力を失いました。この情勢を利用したのが家康であり、永禄4年(1561)に今川から独立した際に、最初に攻撃した相手が鵜殿氏です。最大の障壁となる存在であり、彼らを攻略できずに独立など不可能といっても過言ではありません。というのも、鵜殿氏は今川血縁であり、東三河のまとめ役を務める重要な一族だったのです。
家康は鵜殿氏との戦いで下ノ郷鵜殿氏や府相鵜殿氏を味方につけ、上ノ郷鵜殿氏の当主・鵜殿長照を討死させてその子ども2人を捕縛したと言われています。その際に長照の子2人と築山殿・信康・亀姫を人質交換したと言われていますが、近年ではこの人質交換はなかったという説が有力です。
この戦いの結果、西郡局は人質として預けられ、やがて家康の側室となるのです。家康は攻略した上ノ郷城を久松長家に与え、三河の支配を確立することに成功したのでした。
西郡局と三河の安定化
永禄8年(1565)または天正3年(1575)には、西郡局の唯一の子どもである督姫(とくひめ)が誕生します。督姫の生年については2つの説がありますが、その後の出産年齢的には天正説が有力です。三河国支配に成功した家康は遠江にも勢力を拡大。永禄10年(1567)には嫡男・徳川信康(母は正室の築山殿)と織田信長の娘・徳姫の婚姻も成立。やがて本拠も浜松に移して、岡崎城はまだ幼かった信康夫婦に譲り渡しました。こうなると、岡崎周辺の安定した状態を保つためにも、西郡局が重要な人物になってきます。
上ノ郷城を預かる久松長家は、家康の母・於大の再婚相手であるため、家康の実質的な血縁です。さらに、家康側室である鵜殿氏出身の西郡局がいることで、東三河はとても安定した状態で浜松と岡崎を繋ぐことができるのです。今川氏出身で実家からの支援がない築山殿にとっても、西郡局は無下にできる存在ではなく、信康支援を期待していた可能性は高いでしょう。
天正4年(1576)時点において、岡崎は嫡男信康が、奥三河は長女亀姫の嫁ぎ先である奥平氏が、東三河は久松氏が配置され、徳川家の三河支配体制が盤石であるといえる状況になっています。しかし、この年初に水野信元を織田信長が謀反の疑いで殺害する事件が発生しています。
水野氏は尾張・三河の国境の国人領主であり、家康の母・於大の方の実家です。そのため、於大が家康を産んだ後に嫁いだ久松長家がこれに激怒して隠居。この出来事によって三河周辺が不穏となり、天正7年(1579)には信康と築山殿が粛清されてしまいます。
信康と築山殿がいなくなったことで、養女とはいえ、駿河・遠江で大きな影響力をもつ鵜殿氏出身の西郡局は、三河の安定化において最も重要な役割を担う人物になったのです。
督姫と婚姻外交
それに連なって娘の督姫も婚姻外交の切り札となりました。督姫は天正11年(1583)に北条氏直に嫁いでいます。本能寺の変後、信濃・甲斐の支配を安定させたい家康が隣国の北条氏に同盟関係を求めたためです。一方で西郡局は引き続き、浜松に滞在していました。天正18年(1590)には秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡。北条氏直は高野山に蟄居を命じられますが、督姫は家康の娘という立場が考慮されて、そのまま小田原に滞在しています。この戦いの後、西郡局は家康の関東移封に伴って、浜松から江戸に引っ越しています。おそらくその途中で督姫と久しぶりの再会を果たしたのではないでしょうか。
晩年の西郡局
西郡局は家康周辺における日蓮宗の拠り所でもありました。鵜殿氏の菩提寺だった三河の長応寺は西郡局の養高祖父である鵜殿宝近が開基となっています。宝近のひ孫にあたる日恩なども住職を務めており、三河以東の日蓮宗を鵜殿氏が保護していたことが拠り所である所以となっています。西郡局はこの保護する立場を受け継いでおり、江戸に移住した際に武蔵国日比谷(のちに芝)へと長応寺を移築しています。 督姫が池田輝政に嫁いでも、西郡局は江戸在住を続けていましたが、慶長4年(1599)に豊臣秀頼の後継人として家康が伏見に在住するようになると、伏見に移住。そのまま江戸に戻ることはなく、慶長11年(1609)に伏見で急死しました。
なお、同日に榊原康政も亡くなっており、人々が不思議に思ったという話が残っています。西郡局の死因は不明で、「頓死」という言葉が使われています。法名は「蓮葉院日浄」です。日蓮宗だったため、督姫は息子の輝澄を日蓮宗に改宗させ、母の菩提を弔う役目を任せています。
おわりに
西郡局の血脈は江戸幕府を支える多くの大名家に受け継がれました。さらに、勧修寺家に嫁いだ子孫から仁孝天皇の生母が輩出されており、現代の天皇家にもその血筋は繋がっています。西郡局は家康の浜松時代における三河の安定に、そして外交の要に重要な女性であり、ある意味では築山殿以上に政治的な重要性は高い存在だったと言えるでしょう。そして、後世に家康の血を各地に残した功績も含めれば、家康を一番支えた女性と言っても過言ではないのかもしれません。
【主な参考文献】
- 『蒲郡郡史』
- 『知多郡史』
- 冠賢一「戦国期日蓮教団の展開 ー遠州鷲津本興寺と鵜殿氏ー」「印度學佛教學研究第22巻第2号」(1974年)
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿:悲劇の生涯をたどる』(2022年、平凡社)
- 黒田基樹『戦国大名・北条氏直』
- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 上田市マルチメディア情報センター
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