「お田鶴の方(別名は椿姫)」家康を悩ませた今川一族の女城主 節義を重んじ、孤立無援で玉砕覚悟?
- 2023/02/01
お田鶴の方は遠江国・曳馬(静岡県浜松市)の領主である飯尾氏に嫁いだ女性です。お田鶴の方は今川氏との血縁から遠江の支配強化を目指した縁戚だったのでしょう。その結果、彼女は夫を失い、伝承では家康と戦って曳馬城とともに討死したと伝わっています。
お田鶴の方はそうした伝承から女城主として有名で、今年の大河ドラマ『どうする家康』でも活躍が期待されています。血縁関係から家康の正室である築山殿の幼馴染として登場しているお田鶴の方。今回はそんなお田鶴の方について、史料上の関係と多くの軍記物に描かれた様子から考察していきたいと思います。
お田鶴の方の出自の重要性
お田鶴の方は鵜殿長持の娘で、母親は今川義元の妹です。そのため今川義元にとって数少ない血縁でした。今川氏は花倉の乱という内乱によって一族の男性が失われており、義元は自分の姉や妹による血縁で家中をまとめようとしました。北条氏康に嫁いだ瑞渓院や中御門宣綱に嫁いだ姉などは外交的な理由が大きく、北条氏との和睦や朝廷工作の円滑化が目的と言えます。今川義元は本来家を継ぐ立場ではなかったため、花倉の乱後も暫く立場が安定しませんでした。そのため、東三河のまとめ役として上ノ郷(愛知県蒲郡市)の領主である鵜殿長持に妹を嫁がせたのです。お田鶴の方は今川義元の姪であり、東三河の要人・鵜殿長持の娘として生まれたのです。
お田鶴の方は兄である鵜殿長照の妹のため、長照の生年と想定される天文3年(1534)より後になると想定されます。『蛇塚由来記:落城秘怨史』には天文19年(1550)と記されていますが、その根拠となる史料は不明です。そもそもこの『蛇塚由来記:落城秘怨史』は連龍との出会いを永禄11年(1568)とするなど、明確な記述の誤りが多い文献です。連龍との間に3人の子どもがいることや父親の長持の年齢も考慮すると、天文10年(1541)前後と推測されます。
飯尾氏は遠江の要石だった
お田鶴の方が嫁ぐことになる飯尾氏は、曳馬(静岡県浜松市)の領主でした。曳馬は当時も重要拠点で、古代から地名が存在(『万葉集』にも「曳馬野」として見られ、遠江一帯が引馬と呼ばれていた)したことから東海道の要衝だったと思われています。東に天竜川、西に浜名湖が存在することから東西どちらからも守りやすく、今川氏からすれば西に対する最終防衛ラインとでも言える立地でした。こうした立地のため、飯尾氏は長年三河守護の吉良氏(後にその家臣筋の大河内氏)とこの地をめぐって争っていました。元々は吉良氏の家臣でしたが、今川義元の祖父である今川義忠の頃に連龍の曾祖父・飯尾長連が吉良氏から離反したことが『宗長手記』に記されています。以後曳馬を本拠地として今川氏の遠江支配に協力し、その勢力拡大に貢献したのは間違いないでしょう。
曳馬城(引馬城、引間城)は連龍の父である飯尾乗連が当主となった永正年間(1504〜1521)に築城され、城主に任命されました。乗連は娘を天竜川上流の領主である松井氏に嫁がせ、嫡男である連龍の正室に東三河の有力者・鵜殿長持の娘であるお田鶴の方を迎えたのです。今川氏とも血縁を得た結果、飯尾氏は大永年間(1522〜1528)、享禄年間(1528〜1532)年間には安定していたと考えられます。
今川義元の家督継承後、天文13年(1543)以降に乗連は曳馬から蒲原(静岡県静岡市清水区)に居城を移しています。これは足利将軍の内談衆である大館晴光との交渉を含む、中央との外交を任されたためです。元関白である近衛稙家との書状も残っており、今川家中の外交面で最重要人物の1人だったことが伺えます。
天文15年(1546)、今川義元の西三河出陣に参戦した領主に飯尾乗連の名が見られます。天文20年(1550)には吉良氏領内に進軍した際に西尾(愛知県西尾市)一帯の寺院に出された禁制に乗連の署名が確認されています。また、同年中に一時的に結ばれた今川氏と織田氏の間で結ばれた和睦についての書状でも飯尾乗連の署名が見られます。
桶狭間が変えた周辺状況と夫・連龍の悲劇
飯尾乗連は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で先鋒を務めていたため討死したと伝えられています。この桶狭間の合戦の前まで連龍の活動は確認されていません。初出といえるのが永禄6年(1563)12月で、既にこの時点で今川氏と飯尾氏は対立し、曳馬の飯田という地域で合戦が行われています。この合戦は飯尾氏の家臣で小山六郎という人物が討たれています。しかし城の防衛には成功していると思われます。この桶狭間からの3年間で飯尾連龍に起こったこととして、『今川家譜』は武田信玄による介入を示しています。信玄は北遠江の天野氏や堀越今川氏を誘って遠江に勢力を拡大しようと企み、これに乗った堀越今川氏が飯尾連龍を誘ったとしています。しかし、しばらくして飯尾連龍は今川氏真に詫びをし、今川方に戻っています。これは信玄がこの時期川中島に出陣しており、善光寺平で謙信と睨み合いになっていることが影響したと思われます。信玄の支援が得られないと判断した連龍は、素早く氏真に恭順を示したのでしょう。
しかし、この3年間に三河で急激に勢力を拡大したのが家康でした。家康はこの間に信長との婚姻同盟を成立させ、西方の安全を確保しました。さらに三河一向一揆を鎮めて三河の大部分を支配下に治めました。永禄7年(1564)4月8日、連龍と家康が会談を行い、両者の関係は急接近しています。
この動きは氏真に知られていました。永禄9年(1566)の氏真が出した書状で、この会談について言及しています。しかし、この時も氏真は松井氏(連龍の妹が嫁いだ)の仲介で講和を結びました。連龍は講和のため、永禄8年(1565)12月20日に駿府に滞在しています。しかし氏真はこの日に連龍の妹が嫁いだ松井宗親とともに謀殺しました。
女城主の最期
こうして夫を失ったお田鶴の方ですが、その後氏真が曳馬を攻めた際、女城主としてこれを撃退したとされています。『武徳編年集成』によると、「致実(連龍)が室無双の強力属々奪い戦う」とあります。連龍死後、飯尾の家臣は親家康派と親武田派に分かれたと思われます。家康は親家康派の家臣である江間加賀守に起請文を出し、いざとなれば加勢するという約束をしました。
しかし、永禄9年(1566)2月に今川氏が軍勢を送った際、家康は曳馬に援軍を送ることができませんでした。このため江間加賀守と江間安芸守という2人の重臣は氏真に降り、和睦して再度今川方につくことになったのです。しかし、今川氏真は謀反人である飯尾氏の城を独力で落としきれなかったため、周辺の独立傾向は変わりませんでした。
この時期について、江戸時代の伝記によって状況が大きく変わります。『井伊家伝記』や『遠江国風土記伝』では江間加賀守と江間安芸守の兄弟は反目しあって殺し合いをしたと記録されています。『武徳編年集成』や『武家事紀』では、2人は家康による曳馬攻めまで生き残っていたと記されています。
いずれの文献でも、最終的にお田鶴の方は戦って討死したとされています。
この討死した相手が家康です。永禄11年(1568)12月に家康はお田鶴の方がいる曳馬城を攻め落としました。『井伊家伝記』など江戸時代の文献では家康が降伏を促したものの、お田鶴の方が拒否して城攻めとなったことが記されています。江戸時代に、しかも家康家臣の子孫が残している文献なので家康を悪く言えなかったなども考えられます。
しかし、永禄9年(1566)年2月の今川氏真からの攻撃に対し、援軍を送れなかった家康への反発があった可能性は高いでしょう。さらに家康はお田鶴の方の実兄(鵜殿長照)を攻め滅ぼしています。お田鶴の方にとって許せる相手ではなかったと考えられます。同様に氏真は夫を殺害した張本人であり、頼る気はなかった可能性があります。
実際、この永禄11年(1568)年という年は武田信玄と徳川家康がそれぞれ駿府と遠江に出兵した年です。12月13日に今川氏真は駿府を維持できず、遠江の掛川(静岡県掛川市)に逃亡しています。同じ月に曳馬城が落ちたことを考えると、氏真は頼れる状況ではなかったでしょう。信玄と家康は城攻めに際して互いの出兵地域を示し合わせており、信玄が援軍を送るはずもありません。孤立無援となったお田鶴の方は、玉砕を選んだということになるでしょう。
女城主は本当のことなのか
連龍死後の外部との交渉に登場するのが、家老格の江間安芸守と弟の江間加賀守です。しかし2人はあくまで家老として登場しており、名目上の当主は『井伊家伝記』にある連龍の子である飯尾辰之助か、お田鶴の方が務めていたと推測できます。お田鶴の方は今川血縁であり、辰之助の実母です。連龍が殺害された状況で、飯尾家中をまとめるためにはそうした血の力が必要になります。家老の江間氏の生死については不明ですが、城中がまとまるためには実質的な城主として活動した可能性はあります。
今川氏では寿桂尼のように女性の支配者が存在した時期が明確に存在します。研究が進んでいる最中ですが、井伊直虎も女城主であったという説が存在します。少し時代は後になりますが、美濃岩村城のおつやの方のように信長の血縁で嫡男が幼少のため一時的に城主を務めた人物もいます。そうした時代背景もあって、お田鶴の方は女性ながら飯尾氏の一時的な指導者として活動していた可能性は十分あると言えるでしょう。
おわりに
お田鶴の方自身がどれだけ戦える女性だったのかはわかりません。しかし家康に兄を討たれ、今川氏真に夫を謀殺されたお田鶴の方にとって、頼れる相手はどこにもいなかったと言えます。幼い子どもが城主を務めるのは困難な情勢で、自分が城主となってなんとか一族を残そうとしたのかもしれません。一方、今川氏真も難しい舵取りを迫られていたことが推測できます。当時は血縁でありながら今川氏から離反する動きを見せる飯尾氏がいつ自分を脅かすかわからない状況でした。父親の飯尾乗連は父の義元を支えてくれたのに、連龍が味方になる様子がない。その状況が氏真に連龍を排除する決断をさせてしまった。しかし、それが結果として遠江の混乱に拍車をかけ、今川氏の滅亡を早める形となったのです。
これによって全面的に得をしたのは武田信玄だけでした。家康は遠江の支配を確立するのに苦労し、後の武田との対立へと繋がっていきます。武田は駿河を支配するようになり、念願の海沿いの土地を手に入れたのです。そう考えると、武田信玄という人物の老獪さを感じずにはいられません。
【主な参考文献】
- 『井伊家伝記』(国文学研究資料館所蔵)
- 『宗長手記』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 『武徳編年集成』(国文学研究資料館所蔵、1740年版)
- 内山真竜『遠江国風土記伝』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一駒― 「遠州忩劇」をめぐって」『静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇』(静岡大学教育学部、1988年)
- 冠賢一「戦国期日蓮教団の展開 ー遠州鷲津本興寺と鵜殿氏ー」「印度學佛教學研究第22巻第2号」(1974年)
- 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 山鹿素行『武家事紀』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 蒲郡市HP 上ノ郷城跡について
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