男色一筋ではなかった!? 愛深きゆえに人を殺す男・上杉謙信の愛と裏切りの物語
- 2024/04/15
男色の発音
男色には、誤解が多い。まずその発音だが、『日葡辞書』に「Nanxocu.ナンショク(男色)悪い,口にすべからざる罪悪.」とあるように、「なんしょく」が正しい発音で、「だんしょく」とは読まない。ついでその内容であるが、成人男性同士の関係ではなく、男色は少年愛のことである。例えば「異性愛」というカテゴリのなかに、「既婚者マニア」「軍服マニア」「デブ専」などがあるように、「同性愛」カテゴリの一形態として、「少年愛=男色」があると考えてもらいたい。
さて、男色の基礎知識を少し伝えたところで、今回は上杉謙信とその男色の逸話を紹介する。
愛憎の念
謙信は生涯不犯(一生、性行為をしないこと)を実践した武将として知られている。宗教上の理由によるとも言われるが、実際は家督相続直後からしかるべき後継者(兄の息子。それが夭逝すると、次に姉の息子を迎え入れた)がいたため、政治的問題を回避するため、あえて女性を遠ざけていたようである。
ところで謙信には、「男色を好んだ」とする巷説が古くから語られているが、史料を見る限りでは、謙信が男色を愛好したと明確に伝えるものはなく、当時の大名の醜聞を詳しく伝える『甲陽軍鑑』にもそれらしい記述がない。
元禄3年(1690)の『土芥寇讎記』においては、むしろ男色女色ともに一切の性欲を断ち切った武将ということが伝えられている。
「上杉謙信等は、男女共に、色欲を断絶す」
男色好きと語られがちな人物像は、実は史料的な根拠に乏しく、イメージ先行で語られることが多い。
だが、軍記『松隣夜話』には、小姓に対する屈折した愛情話が描かれている。ただし同書では小姓だけでなく、美貌の女性に恋愛感情を抱く逸話も複数見えており、男色一筋だったという内容にはなっていない。ひとまず内容を紹介しよう。
永禄8年(1565)7月、上杉家の重臣である柿崎景家と北条(きたじょう)高広が、武田衆の守る上州和田城を攻めた。この合戦で「青沼新九郎」という「謙信寵愛の小姓」が鉄砲に撃たれて負傷し、翌日、前橋で死亡した。新九郎は高広の与力である青沼 勘兵衛の三男だったが、無届けで休暇を取って 6 月からずっと父の元にいたらしい。
佐渡庄内に出馬していた謙信は、8 月上旬、帰国してすぐに新九郎の戦死を知らされた。
すると謙信は悲報に涙するどころか激怒した。無断で他国に長期逗留したことを許せなかったのだ。このため、青沼の一族をことごとく追放すると、堀に埋葬された新九郎の屍を引き出させ、首を斬って獄門にかけてしまった。
話には続きがある。どういうわけか謙信はこの後すぐ、高広の甥で、北条伊豆守の弟である「水右衛門(みずうえもん)」という22〜3歳の「若く清げなる侍」を急ぎ越後へ戻るよう命じた。呼び出された水右衛門は「御不断御居間」に急いで参上した。水右衛門が御前に進み出ると、恐ろしいことが起こった。謙信が「例の国吉二尺九寸」でもって袈裟懸けに斬りつけたのだ。もちろん即死であった。
仕置きの理由は書かれていないが、ひとつ推測してみよう。ひょっとすると、こういうことかもしれない。
謙信が新九郎と男色の関係にあり、新九郎の戦死から水右衛門が謙信に内緒で男色の関係にあったことが判明した。そこで謙信は新九郎の遺体を辱め、水右衛門を殺害したのである。
ただ、これはいささか現実的ではない。新九郎の遺体を獄門にしたら、背後に後ろめたいところのある水右衛門が出奔する恐れがあるからだ。謙信がそんな猶予を作るとは考えにくい。
この軍記の逸話は、武田家の遺臣が伝え残したものと考えられるので、不確かな情報をもとに事実ではないことも含めて書いた可能性がある。また、同書は、この原因を男色とは明記していない。
すると、謙信はただ単に、信長が秀吉を気に入っていたように、謙信は気の利く新九郎が好きだった。だが、新九郎は留守の間に役目を離れ、無断で勝手な働きをした。しかも関東方面軍団長の一族で年齢の近い水右衛門がこれを特に抑止しなかった。
謙信は越中で若者の無鉄砲な活動を力づくで押さえ込み、本国に送り返したこともある。
軍規違反と独断は謙信が何より嫌うところであった。
愛した女性に裏切られた謙信
同書には謙信が女性に恋心を抱いた逸話もふたつ記されている。新九郎の話と似通ったところがあるのでこちらも簡単に紹介しておこう。ひとつは土佐佐保という侍の娘に対する恋慕の話である。
謙信はこの若い侍女が気に入り、いつも屋敷に置いていた。だがある時、侍女は里帰りを願い出た。謙信は侍女に「期日にはちゃんと戻ってくるのだぞ」と固く申し聞かせた。ところが思わぬことが起きた。期日が過ぎても侍女は戻らなかったのである。謙信は不快に思った。
「これまで里帰りの申し出を断ったことなどない。それなのになぜ戻ってこないのだ」
青ざめた取次は侍女に飛脚を遣わし、再三に言い聞かせたが、それでも帰る気配がなかった。御屋形様のお気に入りだから──という思い上がりがあったのだろうか。
すると謙信は侍女を強制的に呼び出すと、家臣の手で「御前に於いて成敗」させてしまったのである。
同書によると当時の上杉家では死刑が少なく、他国と比べても2〜3割ほどしかなかったようだが、謙信はこの侍女の振る舞いを許さなかった。
話を聞いた関東の太田資正は、次のように評している。
「謙信公は十のうち、八は大賢人だが、二は大悪人だ」
伊勢姫の伝説
ある時、謙信は伊勢姫という「無双の女房」に「限りなく悦をしたり」というほど惚れ込んだ。ところが都合の悪いことに伊勢姫は敵将の娘であった。事態を憂えた重臣の柿崎景家は、二人の仲を裂くよう働きかけ、伊勢姫は若くして出家を余儀なくされてしまった。ほどなくして姫は病死し、これを聞いた謙信もひどく体調を崩したという。有名な悲恋話だが、またしても残虐な落ちがついてくる。景家を恨んだ謙信が、些細なことで柿崎一族を粛清してしまったというのである。
さて、新九郎と侍女と伊勢姫の物語を立て続けに見てきたが、どれも謙信の信頼を裏切る者がいて、事実が判明すると残酷な報復がなされる形となって定型化されている。
また、新九郎や水右衛門については、それらしい関係を書いていないが、若い侍女と伊勢姫は謙信と肉体的な関係にあったことが示唆されている。謙信が少年に興味があったかどうか不明だが、古い軍記(おそらく戦国時代末期の成立)によると、女性には強い関心があったとイメージされていたようである。
最後にこれらが事実かどうかを探るため、記主の意図を考えてみよう。
裏切り者を許さない謙信への恐怖
謙信は、信濃や関東の庇護に置く領主らが敵軍に脅かされると、繰り返し救援に駆け付けたが、現地の将士に裏切られることも多かった。これに憤って暴虐な態度を示すこともしばしばあった。してみると『松隣夜話』における残酷な悲恋話には、虎の尾を踏まれた時の謙信がどれだけ危険だったかを例え話にして伝え残そうとする記主の狙いがあり、謙信に賢人と悪人の両面があるという資正の評に誘導するための脚色であるのではなかろうか。これらの逸話は、「謙信に贔屓にされることは、ありがたいことではあったが、逆に恐ろしいことでもあったのだよ」と伝えようとしているように思えるのである。
事実はどうあれ、いずれも謙信が恋愛に恵まれなかった事実なくして成立しない逸話である。生涯不犯の伝説は、当時から有名だったのであろう。
2024年4月発売の『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫)には、マイナー・メジャー問わず、多くの逸話を検証している。興味をお持ちになった方はぜひ一度手に取ってもらいたい。
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