上杉謙信は裏切り者を恨まなかった ~「天魔の所行」は罵声ではない?~
- 2022/12/13
※内容紹介(戦国ヒストリー編集部より)
上杉謙信は配下の家臣・北条高広が離反したとき、「天魔の仕業」として、激怒したように一般的に解釈されています。謙信が「義」や「正義」を重んじる性格だったことを考えると、特に疑問を感じない解釈だと感じますが、実際のところはどうだったのでしょうか?
本稿では、『謙信越山』『上杉謙信の夢と野望』の著者、歴史家・乃至政彦氏が、上杉謙信書状から謙信の心情を読み解きます。
「魔が差した」という日本語
不思議な意味を持つ日本語に「魔が差した」という日本語がある。“本当は悪い人ではないはずなんだけど、ついそういうことをやってしまった”というニュアンスで使われることが多い。そこには、「あの夜、夫はつい魔が差して浮気してしまったのですよね」とか「休憩室に誰かの財布がたまたま目の前にあり、あいつも金欠だったので魔が差して、中のお札を抜いてしまったようだ」というとき、“あいつのせいではない”という文脈がある。本意ではないことをやってしまったという形に落ち着けて、関係を修復してやり直させてあげようという優しさがこういう表現を成り立たせているのだろう。
海外にはちょっと考えられない感覚の言葉らしいが、この感覚はいつからあるのだろうか。近世の浄瑠璃には、「根性に魔がさいて」(寳永八年・正徳元年[1711年]近松門左衛門『冥途の飛脚』)という表現があり、すでに18世紀初期から使われていたことを認められる。
これ以前の時代には、こうした表現は検出できていない。ただ、私は「魔が差す」という言葉の源流にあたりそうな表現として、中世の文書に「天魔之所行(執行)」がある。
好例となるのは、上杉謙信の書状である。
俺の老臣がこんな悪どいわけがない
永禄9年(1566)、上杉謙信の譜代で、関東越山時の重要拠点・上野国で厩橋城を預けられていた老臣・北条(きたじょう)高広が、謙信を裏切って、謙信と争う敵方の北条氏政に鞍替えするという前代未聞の事件が起こった。謙信はかねてから高広を信頼していたので、はじめて離反の噂を聞いたときも全く耳を貸すつもりがなかった。
そればかりか北条高広を褒めて、「高広の働きぶりは、優れているばかりか、とても熟練しており、特に代々思いあってきた主従の絆がある。高広が絆を忘れて、妻や子供を見放し、北条や武田に味方してまで私と争おうとするだろうか」とその武人ぶりを褒め、情報操作を図ろうとする者たちがいることを
既丹後守者、其身擬与云、巧者与云、年老与云、殊譜代之芳志を黙止、妻子ヲ捨、南・甲へ一味、争左様ニ可有之候哉、従厩橋除者之可為虚言候、
「(上記現代語訳)これは厩橋城の孤立を狙う者の虚言かもしれない」と推定している。
謙信の見立ては、半分ぐらい当たっている。裏で手を引いていたのは、武田信玄だったからだ。しかし高広は本当に謙信から離反しており、北条・武田連合軍に転身してしまっていた。
天魔の所行のコメント
だから謙信は裏切られたことに憎悪をむき出しにして「天魔の所行」と罵りの声をあげるのも現実的だと評価されてきたようである。だが、すべてが事実だと判明すると、謙信は別の老臣である本庄実乃に驚きの声を伝えた。
全文を読む必要はないので、傍線部だけ見てもらいたい。
以別紙申遣候、仍惣社為加勢松本石見守(= 松本景繁)差籠候処、従彼地能登守為使石見守ニ金子相談添厩橋へ差越候処ニ、無退ニ相留、丹後守(= 北条高広)召連、南方(= 北条氏政)陣へ差渡候事、前代未聞之刷、不及是非候、道七(= 長尾為景)以来之芳志与云、関東ニ輝虎為代差置候事、無其隠候、如此之仕合、天魔之所行ニ候、併吾分足弱之心中、返々失面目候、急度間早々申遣候、謹言、
十二月十三日 輝虎[花押]
本庄美作守(= 本庄実乃)殿
簡単に説明しよう。
謙信は、上野国で厩橋城を預かる北条高広のもとに家臣の松本景繁を派遣した。すると、高広は景繁を拘束して敵方の北条氏政陣営に差し渡してしまった。謙信を裏切って敵方となったのである。これに驚いた謙信は、この書状で高広の無体な行為について「天魔之所行ニ候」とコメントした。
しかも謙信は、「足弱之心中、返々失面目候」と、越後国に保護している高広の妻と子供たち(春日山城で働いているが、人質を兼ねている)の心境まで心配する有様だった。
通説では、このコメントを「天魔の所行も同然だ!」という意味で読み、謙信の憤りとして解釈されている。謙信は裏切り者に激怒したというのだ。
だが、私はこれを謙信の罵倒ではなく、高広が悪いのではなく「魔が差した」と述べていると読むのが適切に思っている。その理由を述べていこう。
仲良くしたい者の疑心を「天魔之執行」と評する
参考とすべきは、この事件から約8年後の天正2年(1574)11月13日付上杉謙信書状である。その内容は上杉家臣の萩原主膳亮と山崎秀仙宛となっている。ここで謙信は、これまでの自身の対外姿勢(佐竹の言い分や立場を考えずに関東の戦略を誤ったこと)を反省して、「謙信ばかもの」だったと述べている。こちらに非があったというのである。その上で、謙信は
一点毛頭表裏悪事無心ニも処、色々之義重家中衆謙信疑心候事、誠々天魔之執行歟
「(上記現代語訳)まったくあなたに悪いことも隠すこともないのに、佐竹家中の皆さんが私を疑っているのは〈天魔のしわざ〉でしょうか」と述べている。
傍線部の「天魔之執行」は、「天魔之所行」と同義の言葉と解釈していいだろう。この謙信書状は佐竹側に、差し迫る脅威への協力要請を伝える内容である。自分が関係を良好化したい相手の非を打ち鳴らすことはないので、この「天魔之執行」は、「魔が差しているのではないでしょうか」という意味で読むのが妥当であるだろう。もちろん、ほかの中世文書に登場する「天魔之所行(執行)」も同じく、魔が差したという読み方で解釈するのが適切に思う。
ここから謙信が北条高広の行ないを「天魔之所行」とコメントしたことは、怒りや恨みを表したのではなく、「魔が差したのだ」と高広への未練を残すニュアンスで発したと考えてよい。そこにあるのは、“罪を憎んで、人を憎まず”の精神である。
なお、謙信は敵方だった相模国の北条氏康・氏政父子と停戦して越相同盟を結ぶことになる。その際、高広およびその家族は一切罰されることなく、上杉家に帰参して、あいかわらず老臣の地位を保ち続けている。
謙信は、高広の罪悪を何も問わなかったのだ。おそらく北条氏康・氏政父子と同盟するときに、あちらから「北条高広も反省しているようだから、あのことは不問にしてやってもらいたい」と擁護されたのだろう。謙信も同盟交渉に水を差したくなかったので、これを黙って受け入れたのだ。
謀反人の息子の嫁取りを世話する
では、謙信は高広のことを内心でどう思っていたのだろうか。氏康が亡くなると、順調に機能することのなかった越相同盟は急速に冷え切り、たちどころにして破棄されることになった。こうなると、北条高広にもとばっちりが向きそうだが、高広の地位は相変わらずそのまま何も変化はなかった。
それから後年のことである。
謙信は、あることが気になっていた。高広の長男・北条景広が30歳になってもまだ独身でいたのである。
この時代、結婚適齢期はとても早く、だいたい10代後半から20代前半までに周囲がこれを世話するものである。
もちろん例外もある。
謙信がそれだ。謙信は兄の長尾晴景から家督を譲り受けたとき、まだ赤子である晴景の長男を養嗣子に迎え、やがてこの子に家督を返す約束をして、独身を通すことにした。やがてこの子が早世すると、謙信は姉婿の喜平次を養子に迎え直すことにした。謙信は後継問題を拗れさせないため、結婚を避けたのだ。
しかし、景広にそのような事情はなかった。ひょっとしたら、父の前科を気にして遠慮していたのかもしれない。そこで謙信は、天正5年(1577)12月18日付書状において、景広に縁談を提案した。まずは漢文の書状を部分的に掲出する。
丹後守(= 北条景広)三十ニ成迄、足弱(=妻)無之候、是者定謙信不合気ニ、[中略]畠山義隆御台、息一人有之候ツル、是者京之三条殿之息女ニ候間、年頃も可然候歟思、息をハ身之養子ニ置、老母をハ丹後守ニ為可申合、
ついでこれの現代語訳を施す。
「北条景広が30歳になるまで奥さんがいないことを、謙信はとても気にしています。[中略]能登守護だった畠山義隆の未亡人には息子がひとりいますが、この女性は京都の三条家の令嬢ですし、景広と年齢も合うものと思います。息子はこちらで養子として引き取りますので、景広は未亡人とお見合いなさってはどうでしょうか?」
謙信はここに、離反したとかの前歴など関係なく、その家族の世話まで焼こうとしているのだ。
この一事からも、謙信が高広を「まるであいつは天魔みたいな男だ」と罵ったとは考えにくい。謙信は、自分が信頼する老臣の責任を徹底追求するよりも、「妖怪(天魔)のせいなのね〜♪」と、棚上げしようとしたのである。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄