史実か創作か…上杉謙信の怪しい男色エピソード

謙信は眼力が鋭かった?
謙信は眼力が鋭かった?

謙信のハニートラップ殺し

 現在、上杉謙信には、男色の諸説があるものの、明確な証拠はない。だが、一応、男色を好んだとするイメージは江戸時代までに定着していたようである。

 そんな謙信に、甘い魔の手が伸びたと伝える軍記もある。

 ハニートラップを仕掛けられたのである。刺客として「みめかたち優なる」美少年が送り込まれた。

 氏家幹人氏は美少年を使ったハニートラップを「戦術としての男色」と称している(氏家幹人『武士道とエロス』講談社現代新書)。

 軍記『北越軍記』によると、永禄年間(1558〜70)の初期頃、越中国を席巻する 神保長職(じんぼう ながもと)が「容色美麗」な「高木左伝次(たかぎ さでんじ)という小姓」を牢人に仕立てて、越後国府内に派遣した。目的はただひとつ、謙信の暗殺である。

 左伝次は謙信を刺殺すれば、父である五兵衛(ごへえ)の出世を約束すると言われており、苦労して謙信のもとに近づいた。

 しかしどういう眼力によるものだろうか。謙信は一目見て「只者ではない」と見ぬいたという。左伝次は重臣・柿崎景家に預けられると、ほどなくして正体が判明し、「誅殺」されたという。謙信には色仕掛けなど通用しなかったという落ちである。

 同様の話は『謙信家記』にも見えるが、別の軍記では謙信の器量がグレードアップされていて、暗殺者の正体を自身で見抜き、心がけを褒めた上で、金子を与えて帰国させてやっている。いきすぎた美談であり、史実としては受け止められない。

 それにしても、軍記史料にしばしば見える他国へのハニートラップだが、物慣れない少年児童を単身で放り込み、なんのツテもないのに「大名に奉公して暗殺しろ」などと命じることが本当にあったのだろうか。私には机上でしかなしえない空想の戦術に思えてならない。

「容貌佳麗」の河田長親

 河田長親(かわだ ながちか、?〜1581)は謙信に重用された側近で、のちには越中魚津城を預けられた。上杉家の正史『謙信公御年譜』には、仕官を許された理由が「容貌佳麗」だったためとあり、謙信と男色の関係にあった可能性を仄めかされている。

 同書によると、永禄2年(1559)9月7日、上洛中の謙信は近江坂本の宿所を出て、日吉山権現に詣でた時、一人の少年に目がとまった。「凡卑の者」には見えなかったという。声をかけてみると、祖先は名のある武家であったが、今は落ちぶれて「農家」になっているとのことであった。このため謙信は、少年を召し抱えた。元服した少年は長親と名乗り、異例の出世を遂げていった。

 以上が『謙信公御年譜』に見える仕官話で、長親が謙信に気に入られて越後に連れ帰られたのは事実である。

 だが、当時の河田氏は「農家」ではなく、将軍家と親密な近江六角氏の側近であった。

 上洛中の謙信は将軍家に敵対する畿内の大名を打倒するため、共闘の密約を六角氏と結んだ。長親を召し抱えたのは、計画の布石にあろう。ところが計画は破れ、将軍は無惨にも殺されてしまう。謙信の策が裏目に出て、長親を連れ帰った理由も明かせなくなった。こうした事情から正確な歴史が伝えられなくなり、後付けの説明が公式記録に書かれることになってしまったのであろう。

 謙信と長親の間に男色を疑わせる史料は『上杉年譜』の他に見られないが、長親が美少年だったとする伝承はその後独り歩きすることとなり、栗原柳庵(くりはら りゅうあん)が安永年間(1772〜81)に編纂した『真書太閤記』に次の逸話が記されている。

長親の美童伝説

 ここでの長親は駿河今川家の小姓として登場する。意表を突いた設定である。

 長親は今川義元(1519〜60)の兄である玄広恵探(げんこうえたん、1517〜36)に仕えていた。それがある日、「眉目美しき少人」ぶりにより、義元の近習である 菅西角兵衛(すがにし かくべえ)に懸想されてしまった。

 しかしいくら言い寄られても長親は返事をしなかった。腹を立てた角兵衛は、なぜかこれを長親の主人である恵探のせいだと考え、義元に「兄上様が逆心を抱いています」と讒言し、両者の間で合戦を起こさせた。結果、義元が勝利し、恵探は殺されてしまう。

 主人を失った長親は戦後、主人の仇である角兵衛を討ち取った。だが、義元の近習を殺害した以上、もう駿河にはいられない。出奔した長親は、越後の 吉江喜四郎(よしえ きしろう)と出会い、「深く断袖の交り」を結び、喜四郎に誘われるまま、越後の大名の長尾為景に仕えた。これが天文5年(1536)のことだという。

狼を斬る河田長親(明治22年出版『真書太閤記』(重修)より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
狼を斬る河田長親(明治22年出版『真書太閤記』(重修)より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 だが実際の長親は、永禄2年(1559)の段階で10代の少年だったわけで、駿河今川家の内訌があった頃はまだ生まれてすらいなかった。ところが『真書太閤記』がいうには、長親が晩年越中で目覚ましい奮戦を見せたのは上杉武士だからではなく、ともに戦った喜四郎の存在の賜物だという。これを読ませるためだけに前歴を創作したのである。

 江戸時代も後期になると、軍記の記述も史実との整合性云々よりも、どれだけ起伏に富むドラマになるかにウェイトが占められてしまう好例(?)である。

[足利義輝]剣豪将軍の若衆遊び

 上杉謙信が河田長親を越後に連れ帰った動機が、中央との手筋を確保する政略の一環にあったことは先に述べたが、その謙信が崇敬し、支援を惜しまなかった将軍足利義輝(1536〜65)は、なかなかの若衆好きであった。

足利義輝の錦絵(月岡芳年画 『魁題百撰相』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
足利義輝の錦絵(月岡芳年画 『魁題百撰相』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 例えば、天和4年(1684)成立の地誌『雍州府志』巻八には、以下のようにある。

「松井佐渡守者、光源院義輝公之寵童」
『雍州府志』巻八より

 松井佐渡守康之(1550〜1612)が義輝の寵愛を受けたというのである。康之はその後、足利義昭へ、そして細川幽斎へと奉公先を変え、勝ち組の人生を歩んでいる。いずれも若衆趣味に理解があったとされる主人である。これ以上の邪推は留め置くが、青年時代の義輝が若衆好きだったのは事実である。

この間はたびたび御出候て、きやもし(=華文字。華奢の意味)なる若衆数多あつめ候て、大酒まてにて、たびたび夜をあかし申候、少弼(謙信)は若もし数奇のよし承り及び候。
(永禄二年・近衛前嗣書状)

 義輝が華奢な若衆を(おそらく所属先の寺院から呼び招き)大勢集めて、朝まで酒宴を楽しんだことが書かれてある。

 関白・近衛前久(当時は前嗣)と将軍・足利義輝は近しい親戚であった。義輝の実母は近衛氏で、正室も前久の姉妹だったのである。二人とも将軍家を圧迫していた三好・松永の専横を嫌い、幕府政治の回復を望んでいた。密談の舞台か憂さ晴らしの放談であろうか、若衆を集めて酒宴を張った。ここで彼らは越後の謙信が「若衆好きであるらしい」と噂して、仲間に連れ込みたいと語り合った。

 剣豪将軍と謳われる義輝もまた歴代の足利将軍同様、若衆遊びが好きだったようだ。

 如何に凋落していたとはいえ、将軍家は趣味道楽を楽しむに申し分ない生活基盤を持っていたようである。

 謙信の少年愛疑惑はおよそこうした史料がベースになっている。あるとも、ないとも断定できないところに、面白みもあると思う。

 2024年4月発売の『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫)には、謙信以外の戦国武将についても、男色の逸話を網羅的に集めて検証している。興味をお持ちになったら、ぜひ一度手に取ってもらいたい。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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