お江戸の富くじ 今も昔も庶民の夢は一攫千金!

富くじ発祥の地・箕面山瀧安寺の抽選会の様子。(『攝津名所圖會 [7]』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
富くじ発祥の地・箕面山瀧安寺の抽選会の様子。(『攝津名所圖會 [7]』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 「年末ジャンボで10億当たったら勤めはサクッとやめて、あれもしてこれもして…」

 毎年年末になると、こんな妄想にふける方もあるでしょう。一攫千金を夢見るのは今も昔も同じこと、お江戸の一攫千金富くじとはどんなものだったのでしょうか?

江戸の富くじの仕組み

 富くじの仕組みは、あらかじめ数字が書いてある紙の富札を買っておきます。

 さて、抽選日に箱の中に数字が書かれたたくさんの木札 “富駒” を入れて置き、穴をあけた木の板で蓋をします。その穴から先端に錐を付けた棒を突き入れ、刺さった“富駒”が当たり札で、同じ番号の富札を持つ人間に賞金が与えられます。

※参考:富突きの様子を描いた錦絵『萬々両札のつき留』(貨幣博物館HPより)

 仕組みとしてはいたって単純で、抽選日に富札を手に集まった大勢の見物人を喜ばすため、美しい振袖をまとった若衆が棒付き役を務めたり、太鼓を打ち鳴らしたり当たりくじの番号を節をつけて高らかに読み上げたりと、精いっぱい盛り上げます。

 富札は“松竹梅”や“福禄寿”など、目出度い組名と数字の組み合わせで出来ており、1枚1枚手書きし、鶴亀や目出度い文字を彫った朱印を押して偽造防止に努めます。

富くじの歴史

 世界のくじの歴史は2000年ほど前古代ローマに遡りますが、15世紀ごろのオランダでも街の外壁や砦を築く費用調達のため、くじを発売した記録が残っています。たいていの賭け事と同じで、どうやっても胴元に金が残るようになっていますからね。

 日本では寛永元年(1624年)に、摂津国箕面山瀧安寺(みのおさんりゅうあんじ)がおこなった『お守り』授けがルーツとされます。これは正月元旦から7日までの参詣者に木札を配り、自分の名前を書いて唐櫃の中に入れさせます。

 7日になると、僧侶が唐櫃の中の札を錐付き棒で3回突き差し、名前を選ばれた3人の善男善女に福運の授かる「お守り」を授けました。お金が配られるのではありませんが、この辺りが日本の富くじ発祥とされます。

 この方式で木札を有料にすれば金が集められると考えたのか、これ以降は市中にお守りではなく、金銭が手に入る本当の意味の「富くじ」が流行りだします。寺社の境内など人の集まるところに場所を借りて富突き興行が行われました。

 しかしあまりの流行ぶりに幕府も元禄5年(1692)、徳川綱吉が『富突講』や『二百人講』など胴元と言うべき講へ禁令を出します。ところが元禄時代になると、この禁止令を引っ込めてしまい、寺社の境内に限り、富突き興行を許すと態度を変えます。

 なぜ態度を変えたのでしょうか。 昔から時の政権は寺社に金銭的援助を行ってきました。それが統治者の義務と考えられ権威付けにもなっていました。ところが幕府財政が切迫してくると、思うように金を渡せなくなり、その代わりとして境内での富突き興行を認め、その上がりを寺社に入るようにしたのです。

賞金はどれくらい?

 富くじの当選金は高いものだと一等千両、現在になおすと江戸時代の米の値段換算で8000万円ぐらいであり、これは高額賞金の部類です。

 一般的には100両かせいぜい150両が大半です。しかも現在のように当選金は免税などではなく、寺社への奉納金や関係者への手数料が引かれ、手元に残るのは7割ぐらいでした。

 当選本数は10本から20本ぐらいで、最初と最後に突き刺した木札の当選金が高かったといいます。面白いことに、現代の前後賞や組違い賞に似た仕組みもあり、それにもいくばくかの金が渡されました。

 前後賞にあたるものを 「両袖」 と言い、組違い賞にあたるものを 「印違合番(しるしちがいあいばん)」 と呼びます。売り出し枚数は2万から4万ぐらいですが、中には18万枚を売り切ったケースも記録に残っています。

 1800年代に入ると、富くじはますます盛んになり、江戸では2日か3日に1度、富突き興行が催されるほどです。しかし当時の正規の富札は1枚1万円ぐらいするのが普通で、庶民が気軽に楽しめるものではありませんでした。

横行するヤミ富

 もっと気軽に富くじを楽しみたい…。そこで出て来たのが「隠富」とか「影富」と呼ばれる賭博行為です。

 公儀の許可も得ずに金を集めて、こちらは富突きなどの興行は省略して、公許富突きの当たり番号を賭けます。隠富は賞金も安いのですが、富札を安く売って当選率も高くしてあり、小銭を賭けても4倍から8倍になって戻ってくるので、庶民の小遣い稼ぎとして大いに流行ります。

 金に窮した大名家の中にはこの流れに便乗して、町方役人が踏み込めないのを幸い、内々に屋敷内で富突き興行を行う藩も出てきます。御三家の水戸藩も下屋敷で密かに富突き興行を開催し、秘密を知った武士にゆすられそうになったとか。

江戸の三大御免富

 幕府が許可した富突きを天下御免の “御免富(ごめんとみ)” と呼びました。特に文化・文政・天保年間(1804~1845)の頃は、ほぼ毎日富突き興行が行われており、開催日や興行場所・興行主・発行する富札の枚数や金額・宝金(当選金額)がわかる一覧表 “御免御富金高日限附” まで発行されています。

 この “御免富” の興行は、ほぼ江戸・京都・大坂の三都に限られました。興業の成功不成功を決めるのは、集客力を見込める寺社の境内を抽選場所に確保できるかどうかなので、地方の寺社が江戸の寺社境内を借りて出張興行を行ったりします。

 “江戸の三富”として有名だったのは、谷中の長耀山感応寺(ちょうようざんかんのうじ)、目黒の泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)、それに湯島天神の富くじです。これら幕府公認の御免富も、その後天保13年(1842)の天保の改革によって禁止されてしまいました。

おわりに

 富くじの禁止は明治になっても引き継がれました。昭和20年(1945)7月に戦費調達のため、1枚10円で1等10万円の“勝札(かちふだ)”が販売されるまでの100年余り、富くじ・宝くじは発売されませんでした。


【主な参考文献】
  • 伏見稲荷大社社務所/編集「朱第53号」(伏見稲荷大社/2010年)
  • 河合敦『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社/2018年)
  • 滝口正哉『江戸の社会と御免富―富くじ・寺社・庶民』(岩田書院/2009年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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