※ この記事はユーザー投稿です
【史跡散策】博多湾沿岸部にある元寇防塁跡をたどる
- 2023/12/11
激しい戦いのあと蒙古軍は撤退して行きましたが、鎌倉幕府は再度の襲来に備え、博多湾沿岸に全長20キロメートルに及ぶ石築地(元寇防塁)を築き、博多湾の守りを固めました。
続く弘安4年(1281年)に、予想どおり蒙古軍は再度やってきましたが、その時には元寇防塁が威力を発揮し、蒙古軍の上陸を阻止したと言われています。
その元寇防塁の跡は、現在もわずかながら各地に点在しています。今回はそのうちでも、百道地区、西新地区、そして地行と唐人町に残るその痕跡を、たどってみました。
バス停 ~ 元寇防塁入口の石碑 ~ 元寇防塁(百道地区)
「防塁跡」は今もバス停の名前として残されています。バス停のそばに建つのが「元寇防塁入口の石碑」。そこから西新地区の防塁跡はすぐですが、まずはやや遠回りをして、百道地区の防塁跡を訪ねることにしました。 石が並べられた跡が残る、ここが「元寇防塁(百道地区)」。
なるほど、人の手の跡がはっきりと判ります。このあたりは北の方へ大幅に埋め立てが行われたので海岸線はもっとずっと近くにあったはず。当時の海岸線を考えに入れると、この場所に防塁が築かれた事実が、よりリアルに感じられます。1274年の文永の役の際にはこの百道原のあたりから元軍が上陸し、壮絶な地上戦が繰り広げられたそうです。
元寇神社~ 元寇防塁跡(西新地区)
次は歩みを戻して西新地区の防塁跡へ行きました。ここにはごくごく小さい「元寇神社」が建っていました。社務所等もないシンプルなもので、来歴など全く説明がないのですが、当時の戦いで命を落とした兵士たちを祀っているものでしょうか。こちらの跡はより「防塁」らしく残っています。なるほど、このようなものがずっと海岸にのびていたのですね。当時の様がぐっと想像しやすくなりました。ものものしい眺めだったろうなあ。国宝『蒙古襲来絵詞』に描かれていたものの実物がこれか、と思うと感慨もひとしおです。
亀井南冥昭陽先生の墓~ 元寇防塁跡(地行地区)
続いて、歩いて30分程度の場所にあるという地行地区の防塁跡に向かいました。途中見かけたのが「亀井 南冥(かめい なんめい)昭陽(しょうよう)先生の墓」です。亀井南冥と昭陽父子は江戸時代の福岡藩の儒者で、昭陽は広瀬淡窓(ひろせ たんそう)らを育てるなど、優れた人材を教育した人物だそうです。
さて「防塁跡(地行地区)」に着きました。スマホを頼りに探したところ、ここは金網の向こうに、かすかに石が残るのが望まれる場所でした。
よくよく目をこらさないと分からなかったほどですが、標識があったのでそれと判りました。もっと近くで見たかったな…。
大圓寺
さらに最後の、唐人町の「大圓寺」を目指します。ここには「元寇防塁の残石」があるということです。「大圓寺参拝口」を少し入っていったところに…あっ! ありました!
かなり無造作に置かれていて、手を触れることさえ出来そうです。この石を、およそ750年前の人が積んだのかなあと思うと、不思議な気がします。防塁全景のジオラマなどがあれば、見てみたく思いました。
まだ建物など何もなかった頃、海岸沿いに延々と長く築かれた石の壁。それを思い描くと、ここが国防の最前線だった時代の雰囲気が感じ取れるようです。今とは全く違う、古の空気がちょっと理解できるような、徒歩散歩となりました。
博多区博多小学校にも「石塁遺構展示室」があるとのこと。次は是非そちらを見学したいと思います。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄