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【史跡散策】徳川家康戦死(影武者)説の可能性は? 堺・南宗寺を実地調査
- 2024/02/26
南宗寺(なんしゅうじ)は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は龍興山で、本尊は釈迦如来。
この寺には徳川家康の墓と伝わる場所がある。徳川家康の墓は日光東照宮のはずで、遠く離れた大阪の南部に墓があるなど聞いたことがないが、いったいどういうことなのか。
大阪難波〜阪堺線御陵前駅へ。路面電車だ。
駅から徒歩5分。山門へ着く。南宗寺は、1557年に三好長慶が父・元長の菩提を弔うために大林宗套を開山として創建された。
「南宗禅寺」、曹洞宗や臨済宗の場合、正式名には禅宗の ”禅” の字が入る。
広大な境内を歩いて行くと、甘露門(山門)が見えてくる。創建当時は壮大な寺院を造営し、著名な禅僧が来住して堺の町衆文化の発展に寄与したという。他にいくつかの塔頭も残る。
1615年の大坂夏の陣で焼失した後、寺地を現在の場所に移し、1617年に今の場所に再建された。もとはもう少し北にあったらしい。
墓を含む庭園内は30分ほどかけてボランティアガイドさんが案内、説明してくれるが、撮影禁止。徳川家康の墓についても説明を聞き、いろいろ質問するが、あまり専門的なことになると言葉を濁される。
国指定重要文化財の本堂である仏殿も裏手から入り見学するが、撮影は外からだ。
仏殿の右方には小規模ながら、国指定重要文化財の唐門がある。旧東照宮の表門でもある。
徳川家康の墓もあり、もともと東照宮だった祠もある。家康は大坂夏の陣(1615)で真田幸村らの追撃に遭い、堺まで逃げてきたが、ここで後藤又兵衛に槍で刺されて落命したという伝説もある。
この寺には2代秀忠と3代家光も立ち寄ったという記録があり、家康の戦死説を補強している。
本当ならば、翌1616年まで生きていた家康は影武者だったことになる。たしかに、天ぷらを食べ過ぎたか当たったかでお腹を壊してしまったというのは家康にしては不用心過ぎて不自然な気がする。
ただ、大坂夏の陣(1615)で豊臣方の大野治房によって寺も焼かれてしまったため、家康が戦死したタイミングでは寺はなかったことになる。
埋葬されたという開山堂が焼け残り、その後ここへ移動されたのだろうか。もしくは、寺とは関係なくこの地へ埋葬され、のちに寺が移ってきたのか。どちらかということになる。
さらに、後藤又兵衛は道明寺の戦い(夏の陣の戦いの一つ)で戦死せず、家康を討つためにここまで来たことになる。
考えられる可能性としては、逆にここで戦死したのが家康の影武者だったら、という仮説を思いついた。
大坂の陣では家康は万が一の退却を考えて伊賀や彦根の拠点を強化していて、諜報作戦なども含め慎重に進めているので、自分の影武者くらいは用意していてもおかしくはない。大阪方、特に真田幸村あたりが自分ひとりに狙いを定めてくることくらいは想定していただろう。
誰が家康(の影武者)を刺したかはわからないが、地元の人たちは戦死した家康として墓を堀り、埋葬したのかもしれない。
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