【史跡散策】実走!三方ヶ原の戦い 家康敗走ルートを辿る

歴史ファンの皆さんお馴染み、家康しかみ像
歴史ファンの皆さんお馴染み、家康しかみ像
 歴史ファンのみなさん! “三方ヶ原の戦い”(1573年) はご存知ですよね。武田信玄に完敗した家康は浜松城に逃げ帰ります。しかし、『三河物語』や『浜松御在城記』を読んでも、どのルートで帰ったのかは不明です。そこで今回は、地元に残る伝承に基づいて敗走ルートを推測し、実際に走ってみました。

伝承に基づく敗走ルート

 上記マップの赤矢印、および赤数字が家康敗走ルートになります。各地点は以下のとおりです。

  • ★浜松城(マップ下部の★)→
  • ★三方ヶ原古戦場跡(マップ上部の★)→
  • ①長栄寺付近 →
  • ②龍泉寺阿弥陀堂 →
  • ③小豆餅 →
  • ④銭取 →
  • ⑤阿弥陀橋 →
  • ⑥曳馬の小粥家 →
  • ⑦浜松八幡宮の雲立楠 →
  • ⑧下垂口(浜松城)

まずは浜松城(マップ下部の★)から出陣

ロードバイクの後ろに見えるのが浜松城
ロードバイクの後ろに見えるのが浜松城

 今回は徳川家康になったつもりで白馬(白いロードバイク)に乗って出陣、武田軍と衝突した三方ヶ原古戦場へと向かいます!

実はよくわかっていない合戦場

三方原古戦場碑
三方原古戦場碑

 三方ヶ原で戦いが行われたのは事実ですが、具体的な場所など詳細は未だにわかっていません。現在は「三方原墓園(浜松市北区根洗町)」に古戦場碑が建てられていますので、ここから逃げてみましょう。

① 草むらに隠れる家康 ~長栄寺(浜松市中区花川町)付近~

 ここは、 “庄屋八右衛門が家康を農民の格好にさせ、草むらにかくまった” という伝承があります。

 実際に10分程で着く距離にあるので、まずこちらに家康が逃げてきた可能性が高いですね。

② まっすぐ城へ帰らない家康 ~「龍泉寺(浜松市東区半田山4丁目)」の阿弥陀堂~

 次に向かったと思われるのは、 “阿弥陀堂に隠れた家康はここで阿弥陀如来から反撃の奇策(布橋の夜襲)を授かる” という伝承が残っているこの場所です。

 最初に載せた敗走ルートを見ると、まっすぐ城へ向かわず三方原台地を横切っていることがわかります。私は少し道に迷い30分位かかりましたが、多分家康も右往左往しながらここまで逃げてきたのでしょうか。

③ 腹が減った家康 ~小豆餅(浜松市中区小豆餅)~

和菓子屋「御菓子司 あおい」
和菓子屋「御菓子司 あおい」

 この後、家康は城に向かったと思われますが、“腹が減った家康は餅屋で小豆餅を食べるが、武田軍の追手が見えたので金を払わず逃げ出した” という有名な小豆餅伝承が残っています。

 現在は「御菓子司あおい」という和菓子屋さんがあり、私もここでおはぎを購入しました。龍泉寺からは20分位です。

とてもおいしかった”おはぎ”です
とてもおいしかった”おはぎ”です

④ 追いつかれる家康 ~銭取(浜松市中区泉1丁目)~

 武田の騎馬軍団からは逃げ切る家康ですが、 “餅屋のお婆さんが逃げる家康に追いつき餅代を払わせた” という小豆餅とセットの伝承がこの辺りに残っています。

 小豆餅から10分程でその名を残したバス停に着きますが、お婆さんは馬より速く走ったのでしょう。

⑤ 阿弥陀如来像を踏みつける家康 ~阿弥陀橋跡(浜松市高林5丁目)~

阿弥陀橋(あみだばし)跡
阿弥陀橋(あみだばし)跡

 銭取から三方原台地を下るとすぐに、 “常楽寺(浜松市中区中沢町)から阿弥陀如来像を持ってきて曳馬川の橋の代わりにした” 阿弥陀橋跡があります。

 阿弥陀如来像を橋の代わりにしなければならない程、緊急事態だったと思われます。

⑥ お粥をご馳走になる家康~浜松市中区曳馬~

 阿弥陀橋跡から遠州鉄道の高架に向けて進むと曳馬という地区に入ります。

 “お腹が空いた家康は逃げ込んだ農家でお粥をご馳走になり、後にお礼として小粥(おがい)という名字を与えた” という伝承があります。

 今でもこの地区では小粥という名字の家を結構見かけます。因みに、相当お腹が減っていたのか鍋にあったお粥を全部食べてしまったようです。

⑦ ゴール目前で逃走祈願をする家康 ~浜松八幡宮(浜松市中区八幡町)~

 曳馬から遠州鉄道の高架下を浜松駅方面に10分程走ると、浜松八幡宮に着きます。

 “八幡宮まで逃げてきた家康はここで救済の祈願をすると、大楠から瑞雲が立ち上がった” といわれ、今でも拝殿前に立派な大楠が残っています。

 また、 “この大楠の根元にある穴に家康は隠れた” という伝承もあります。しかしながら、浜松城の目前にある八幡宮に寄らねばならぬ程、家康は追い詰められていたのですね。

⑧ 無事ゴール! ~浜松城の東門(下垂口)~

 史実では北門にあたる玄黙口に逃げ帰ってきたそうですが、 “家康は兜の紐の尾が垂れたまま城の東門に向けて逃げ帰ったので、ここは紐垂れ(ひもたれ)という地名になり、いつしか下垂れ(しもだれ)と呼ばれるようになった” という伝承が残っていますので、ゴールを下垂口にしました。

 数ある浜松城の門跡のうち唯一、枡形(喰い違い)の跡がはっきりと残っている場所です。曳馬城跡(古城、現浜松東照宮)のすぐ近くですので、浜松城に行ったときはぜひお立ち寄りくださいね。

あとがき

 今回は“三方ヶ原の戦い”に限定した伝承地を実際に走って敗走ルートを推測しました。まっすぐ城に帰らず、あちこち逃げ回っていた様子が実走してみてよくわかりました。

 このように実際に体験してみると、より一層、歴史を楽しめます。みなさんもやってみてはいかがでしょうか?

<家康敗走ルート 実走データ>
  • 走行距離:39km
  • 走行時間:1時間57分
  • 経過時間:3時間4分


【主な参考文献】
  • 『三方ヶ原の戦い』小和田哲男 学研M文庫(2000年)
  • 『はままつ歴史発見』神谷昌志 静岡新聞社(1987年)
  • 『遠州の民話』加藤修一 静岡新聞社(1993年)
  • 『浜松市史 二』浜松市(1987年)
  • 『家康伝承調査事業成果報告冊子 家康伝承と浜松』浜松市博物館(2022年)

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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