「どうする家康」後北条氏はなぜ豊臣秀吉に攻められたのか

秀吉の小田原攻めの際、北条方の小田原城内では戦うべきか和睦すべきかの議論が長引いた(小田原評定)
秀吉の小田原攻めの際、北条方の小田原城内では戦うべきか和睦すべきかの議論が長引いた(小田原評定)

 大河ドラマ「どうする家康」第37話は「さらば三河家臣団」。九州平定(1587年)を成し遂げ、勢威いよいよ高まる豊臣秀吉ですが、関東に勢力を張る小田原の北条氏は、まだ服属させていませんでした。

 秀吉に服属した徳川家康は、北条との和睦後、次女・督姫を北条家当主・氏直に嫁がせていました。徳川と北条は、本能寺の変(1582年)後に、甲信地方を巡り争った(天正壬午の乱)のですが、その和平の際、甲斐・信濃両国は徳川に、上野国は北条が領するものと約されたのです(徳川幕府により編纂された徳川家の歴史書『徳川実紀』)。

 しかし、上野国の沼田領は、真田昌幸のものでした。よって、真田は沼田を北条氏に渡そうとはしません。家康は真田に「沼田を北条氏に渡すべし。替地は別に与えよう」(『徳川実紀』)と呼びかけますが、それでも真田は納得せず、ついに、真田は徳川を去り、秀吉に帰参することになります。

 さて、小田原の北条氏は秀吉政権に対し、強硬一点張りだったわけではなく、北条氏政の弟・氏規を上洛させたりもしています(1588年8月)。これを臣従と見做した秀吉は、北条と真田氏の係争地・沼田領の配分に着手。「沼田領の3分の2を北条氏に」「残りの3分の1は真田氏に」「沼田領3分の2に相当する替地は、家康が真田に補償」することに決められます。『徳川実紀』には、関白(秀吉)の命令であるので、仕方なく、真田は沼田を北条氏に渡したとあります。

※参考:沼田領配分マップ(沼田裁定後)。色塗部分が沼田領で、青マーカーが北条、赤が真田の領地(戦ヒス編集部作成)

 上野国の名胡桃(群馬県みなかみ町)は、真田の父祖縁の地ということで、真田方に残されました。ところが、その名胡桃城を、沼田城に入った北条家臣・猪俣邦憲が奪ってしまうのです(1589年10月)。真田昌幸は、これを憤り、早速、この事を秀吉に伝達。これを聞いた秀吉も、北条の「反覆」(裏切り)に激怒します。北条の名胡桃奪取が、秀吉による小田原征伐(1590年)の要因になったと『徳川実紀』は記しています。家康は北条と縁戚にあったので、北条に上洛して、秀吉に臣従するよう勧めます。

 ところが、同書によると、氏直の父・氏政は(代々、関東を打ち従え、一族広く、家豊かで、世に恐ろしき者はない)と信じる「田舎者」だったので、人の諫めを聞かず。とうとう、秀吉に討伐されることになるのです。秀吉軍は22万、家康軍は2万5千(『徳川実紀』)で関東に攻め込みます。北条方の諸城は次々と陥落。ついに、北条氏は降伏するのでした。氏政は切腹、氏直は高野山に追放となります。氏直が助命されたのは家康の娘婿だったからでしょう。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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