「どうする家康」徳川家康と武田勝頼の攻防…そして嫡男・信康との論争の真相は?
- 2023/06/19
大河ドラマ「どうする家康」第23話は「瀬名、覚醒」。天正3年(1575)における徳川家康と甲斐の武田勝頼の攻防も描かれていました。同年5月頃より、家康はかつて武田信玄に攻め取られていた遠江国の諸城を奪還する作戦を展開しています。光明城(浜松市)、犬居城(同前)を、それぞれ6月と7月に陥落させているのです。
8月中には、諏訪原城(静岡県島田市)まで攻略しています。続いて、徳川軍は小山城(静岡県榛原郡吉田町)を攻囲します。同城を守るは岡部元信。元・今川家の家臣であり、桶狭間の戦い(1560年)直後に討死した今川義元の首を貰い受けるまで奮戦したことで有名な武将です。その後、紆余曲折あり、元信は武田家に仕えていました。そんな元信が守備する小山城ですので、徳川軍が攻めても、そう簡単には落ちません。そうこうするうちに、武田勝頼が「後詰」として、小山城救援のため、出張ってきます。9月のことでした。
勝頼が出てきたということもあり、徳川軍は小山城を落とすことはできませんでした。今回の「どうする家康」では、小山城攻略を諦め、撤退する際に、家康と嫡男・松平信康の間で、論争が起きたという風に描かれていました。信康は撤退自体を反対していましたが『三河物語』や『徳川実紀』には、そのような記述はありません。『三河物語』では、信康が「親を残して、先に自分が退くことはできない」と主張。
一方、家康は「倅は訳の分からぬことを。早々にお前が退け」と信康を先に退かせようとする。どちらが先に退くか、何度も押し問答があったようですが、信康が譲らぬので、家康は根負けして、先に撤退。その後で、信康が整然と隊列を組んで退却したということが『三河物語』に掲載されています。『徳川実紀』にも同種の話が載っています。家康は「おぬしはまだ若く、戦に習熟していない。先に退け」と信康に言うが「父君を残して、先に退くことはできませぬ」と信康は主張。
そこに酒井忠次がやって来て「只今、緊急事態。両殿はともあれ、それがしは先に退きまする」とさっさと退却。よって、家康も忠次に続き退却していったというのが『実紀』の記すところです。信康はその後で、見事に退却していきます。それを土塁で眺めていた家康が「天晴れな退却。勝頼は10万の兵を率いて攻めて来ようとも、勝つことはできまい」と信康の撤退の仕方を賞賛したという逸話も付加されています。
『実紀』には、家康と信康が激しく論争したとは記されていません。それにしても、主君を残してさっさと引き上げた忠次の行動にはクスッと笑ってしまいました。
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