「どうする家康」徳川家康が我が子の秀忠に伝えた ”遺言” とは

岡崎城にある家康公遺言碑
岡崎城にある家康公遺言碑

 大河ドラマ「どうする家康」第48話(最終回)は「家康の死」。波瀾万丈の生涯を送ってきた徳川家康の死が描かれました。

 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は、元和元年(1615)、駿河に帰国します。しかし、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)によると、その翌年(1616)正月、家康は田中(静岡県藤枝市)に鷹狩に出かけた折に発病。病は次第に重くなり、4月17日、とうとう亡くなったといいます。

 家康の遺言を知る者はいなかったそうだが、世上には、次のような風聞があったようです。

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家康:「私が死んだ時、諸国の大名を三年は国元には帰さず、江戸に居らせよ」

と家康は2代将軍の徳川秀忠に述べたとのこと。すると秀忠は以下のように返答したそうです。

秀忠:「御遺言は、一つも違えぬ積もりですが、その事はご容赦ください。もし、ご逝去されたならば、すぐに諸国の大名を国元に帰します。そして、敵対する者がいたならば、その者だけを敵対させておいて、攻め寄せて、踏み潰しましょう。天下は一合戦せねば収まらないでしょう」

 家康は我が子・秀忠の返答を聞くと、手を合わせて、将軍(秀忠)を拝みます。

家康:「その言葉が聞きたくて言ったのだ。これで天下は静まった」

 そう述べると亡くなったという噂が広まっていたとのこと。
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 この噂の真偽は分かりませんが、真だとすると、我が子・秀忠の剛毅な言葉を聞いて、家康は安心して旅立ったといえます。噂を聞いた人々は、秀忠の返答に感心したようです。家康死去後、秀忠は「家康は4月17日に亡くなったこと、大名は江戸に下向しなくて良いこと、国元でゆっくりと政治向きのことなどを済ませてから江戸に来ること」などを大名に伝えました。

 すると、諸大名は秀忠の言葉とは逆に、大至急で江戸に馳せ参じたそうです。

『三河物語』は、家康の先祖の事績から書き記していますが、徳川家が繁栄してきた理由を「代々の当主が慈悲があったこと」「武勇に優れていたこと」「良き譜代(家臣)を持っていたこと」「お情けを持っていたこと」に求めています。

 家康と言えば「狸親父」のイメージが強いですが、大久保彦左衛門は家康の「慈悲深さ」(豊臣七将襲撃の際、石田三成を助けたこと。関ヶ原合戦後、敵対した毛利氏・島津氏などを滅亡させず、国を与えたこと)を強調しています。リーダーにとって何が大切かを同書の記述は教えてくれます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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