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あの「お江」が義父・家康に直訴した実直な夫の“遊び癖”

『崇源院像』(京都養源院所蔵、出典:wikipedia)
『崇源院像』(京都養源院所蔵、出典:wikipedia)
 「お江(ごう)」は戦国の世に天下統一を目指した織田信長の姪にあたる姫君。現代では崇源院とも呼ばれています。2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」では、上野樹里さん演じる主人公としてその生涯が紹介され、広く名前を知られるところになりました。

 時代に翻弄されたお江は婚姻と離縁を繰り返し、最終的に徳川家の二代将軍秀忠の正室に落ち着きます。そんな彼女が夫のある遊びに業を煮やしていたのをご存じですか?

「将軍ともあろうお方が遊びにうつつを抜かしていてよいのでしょうか」

 慶長17(1612)年、お江は夫の父である家康に、そんな手紙を送りました。家康はすでに秀忠に家督を譲り、駿府城で隠居している身でしたが、江戸幕府の最高権力者として隠然たる力を持っていました。その家康に将軍としてわがままに振る舞う夫を叱ってもらおうと、〝告げ口〟をしたのです。

 その遊びとは囲碁のこと。秀忠は大変な愛棋家でもありました。江戸時代は当世のトップ棋士たちが公務で大々的に対局する年1回の「御城碁」が幕末まで続きましたが、寛永3(1626)年に秀忠の御前で打たれたのが始まりとされています。盤上遊戯を大がかりなイベントにしてしまうくらいですから、よっぽどのめり込んでいたのでしょう。

 先に紹介したお江の苦言に対して、家康はこのような手紙を返しています。

「わしも中年まで碁を知らず、愛好者はうつけ者だと思っていた。でも、近頃覚えて雨の日の退屈しのぎに打つとなかなか面白くてな。人間関係もよくなるし、そう悪いものでもないぞ」

 どうやら家康も同じ穴の狢だったようで、お江の狙いは空振りに終わりました。大御所となった家康は、囲碁三昧の日々を送ったといいます。やはり血は争えませんね。

 お江は権力者の駒として、若い頃から政略結婚などに利用されてきました。それでも秀忠に嫁いだ後は、世継ぎの家光も生んで立場を盤石なものとしました。江戸城の大奥を取り仕切った女傑としても知られています。秀忠は生真面目な性格で、側室を持とうとしませんでした。お江との夫婦仲は良かったようです。遊びも囲碁程度ならば至って健全だと思うのですが・・・。それでも彼女は戦国の世に翻弄された苦労人だったので、世襲で権力を手にしてのほほんと趣味に興じる夫が歯がゆかったのかもしれませんね。

 しっかり者の嫁の怒りに気を配りながらも、跡継ぎの息子を弁護してやる舅-現代でもそこかしこに転がっていそうな話です。400年以上も昔の将軍家を、何だか身近に感じませんか。

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  この記事を書いた人
かむたろう さん
いにしえの人と現代人を結ぶ囲碁や将棋の歴史にロマンを感じます。 棋力は級位者レベルですが、日本の伝統遊戯の奥深さをお伝えできれば…。 気楽にお読みいただき、少しでも関心を持ってもらえたらうれしいです。

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