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江戸時代に盲目の棋士がすごい戦法を編み出した

当同座の始まりは盲目の琵琶法師たちだった(国立国会図書館デジタルコレクションから)
当同座の始まりは盲目の琵琶法師たちだった(国立国会図書館デジタルコレクションから)
 将棋に「石田流」と呼ばれる戦法があります。三間に振った飛車を中段まで上げ、その真下に桂馬を跳ねる独特の駒組みをします。飛車がいかにも窮屈な場所に置かれ、初級者には指しこなすのが難しいのですが、飛車、角、銀、桂が連携した攻撃力が魅力で、効果的な奇襲戦法として知られています。

 この石田流の創始者とされるのが、石田検校(けんぎょう)という人物です。江戸時代の慶安年間(1648~1952年)ごろに活躍していました。将棋界では名を知られた存在ですが、実はその素性はよく分かっていません。それでも本人が指した対局の棋譜が現代にも伝わっており、その息づかいを感じ取ることができます。

 検校というのは名前ではなく官職のひとつで、主に僧侶に与えられました。当時は盲目の人びとでつくる当同座と呼ばれる職能集団がありました。箏などの楽器や鍼灸などの医療を生業とする人びとが、幕府公認で自治的な互助組織をつくっていたのです。

 検校はその最上位の肩書きで、その下に別当、勾当(こうとう)、座頭と続きます。盲目の侠客がばっさばっさと敵を切り倒す「座頭市」という勝新太郎主演の有名な映画がありますが、このタイトルも当同座の肩書きに由来しています。主人公は視覚以外の感覚が鋭敏な居合いの達人ですが、もともとの職業はマッサージ師という設定でした。

 何百年も前に考案された石田流ですが、単なる古典ではありません。昭和時代にはトップ棋士の升田幸三が古棋譜から着想を得て「升田式石田流」を編み出し、好成績を挙げました。その後もさまざまな棋士によって現代風のアレンジが施され、研究が進んだ今でも有力な戦法として活用されています。アマチュアにも人気で、大きな書店にゆけば将棋コーナーの棚に石田流の定跡書がずらりと並んでいます。

 江戸時代は石田検校のほかにも、石本検校という将棋指しが知られています。幕末の天才棋士・天野宗歩や将棋の家元である伊藤家、大橋家の当主らと熱戦を繰り広げた名棋士です。現代でも視力を失った西本馨七段がプロの世界で戦っていました。一流の棋士は頭の中だけで十分に将棋を指すことができます。9×9の小さな盤上での知的競技において、視覚障害は大きな不利にはならなかったのでしょう。

 江戸時代は現代に比べると医療が発達しておらず、疫病などで後天的に視覚障害になるケースが多かったようです。ITにも頼れない時代の苦労は察するに余りありますが、ハンディに負けず得意分野で腕を磨き、歴史に名を残した人が少なからずいました。彼らの活躍は人間が持つ大きな可能性を感じさせてくれます。

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  この記事を書いた人
かむたろう さん
いにしえの人と現代人を結ぶ囲碁や将棋の歴史にロマンを感じます。 棋力は級位者レベルですが、日本の伝統遊戯の奥深さをお伝えできれば…。 気楽にお読みいただき、少しでも関心を持ってもらえたらうれしいです。

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