【麒麟がくる】第11回「将軍の涙」レビューと解説

美濃は尾張と同盟を結びましたが、さっそく危ない目にあっている尾張を助けに行くだけの結束力が今の美濃にはありません。人質である帰蝶を守るために奔走する光秀。なんだか毎回何かしらの理由で奔走していますね……(笑)

人質交換で今川に渡された竹千代は

前回、信長と将棋を指しながら「信長さまのためなら~」と今川の人質となることを承諾した竹千代。わずか6歳とは思えない察しの良さでしたね。

今回、今川の人質となっていた織田信広と織田の人質の竹千代の交換がなり、竹千代は今川義元・太原雪斎と顔を合わせます。竹千代はさっそく「私はいつ三河へ帰していただけるのでしょうか」と尋ねますが、「いずれ」とやんわり濁されます。このときの三河は織田方と今川方に分かれて争っていました。

今川は竹千代を取り戻したことにより、三河を手に入れる口実を得ます。「三河を救うため」という大義名分で、三河の織田方を一掃するための戦支度を始めるのでした。

「いずれ帰れるよ」と言われた竹千代ですが、もちろん岡崎城に戻ることはかないません。岡崎城主であった竹千代の父・松平広忠が同年に亡くなってからは今川の支城となり、今川家家臣が城代を務めるようになります。

竹千代は駿河に留められて人質として少年時代を送ることになります。岡崎城を取り戻すには、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死を待たなければなりません。


高政(義龍)、父を討つ決意

光秀は「援軍は送れないけど米なら送れる」と言いにくいことを言いに行く役目を押し付けられ、尾張那古野城の信長を訪ねます。美濃が援軍を出さないことを知ると、平手政秀は憤慨しましたが、信長は将軍家に取りなしを頼んで和睦しよう、と提案します。

一言で言ってしまえば簡単な策ですが、将軍家に取りなしてもらうには金が必要です。あの金にうるさい道三が承諾するはずもなく……。光秀は仕方なく、土岐頼芸に頼むことに。光秀自身は頼芸とのつながりがありませんから、高政(義龍)に仲介を頼むしかありません。

勝手に同盟を結んだ父の尻ぬぐいなんてしたくない高政は、「何でも言うことをきく」という光秀の言葉でしぶしぶ仲介するのですが、これがめぐりめぐってとんでもないことにつながってしまうのです。

当然、頼芸だって勝手な同盟を結んだ道三をよく思っているわけがありません。自分が動かなければならない道理はないのです。

おまけに、道三自身が守護になろうとしているという話もある。それでも自分に頼むのか、と言う頼芸に、高政は「その話が本当ならば、私は御屋形様をお守りし、父・利政を……父・利政を……」と言い淀みながら決意を表明しようとします。

「殺せるか?」という頼芸の直接的な問いに、高政はもはや頷くしかありません。この高政の決意が、これより7年後の長良川の戦いにつながるのです。

この高政の謀反に光秀が関わっていたかどうかは、史実からは見えてきません。しかし、「麒麟がくる」では光秀の「何でも言うことを聞く」というお願いのせいで高政は謀反の言質をとられてしまったわけです。自分の頼みのせいで、もう美濃は長良川の戦いへまっしぐらです。

このままでは光秀は高政に「父殺しに加担しろ」と言われるに決まっているし、何でも言うことを聞くと言った、自分の一言のせいでこうなったからには高政に従わざるを得ないわけですが、どう転ぶのでしょうか。

明智城は義龍によって落とされ、光秀は落ちのびて牢人となった、というのが通説ですが、『美濃明細記』には義龍の味方として戦った人物として明智十兵衛の名があります。ただ、『美濃明細記』は1700年代の書物ですから、あまり信頼できる史料とはいえません。

「麒麟がくる」では、これまでも光秀は味方に引き込もうとする高政の誘いを蹴って道三の考えに賛同して行動してきたので、今回も「何でも言うことを聞く」約束を反故にする可能性は高いでしょう。道三正室の小見の方は おば ですし。

余談ですが、光秀は「金10枚ください」と遠慮なしに言っていますが、このころの金1枚は米50石に相当するので、現代の価値に換算すると金10枚でおそらく1000万~4000万円ほどになると思われます。

なかなかポンと出せる金額ではありませんが、高政の「うん」を担保にもぎとったのでした。光秀、罪深い男です。

天文18年(1549)、将軍・義輝の立場

調停金と文を手に入れた光秀は、偶然宿で細川藤孝と再会して朽木の義輝との面会がかないます。

この年の江口の戦いで細川晴元が三好長慶に敗れ、義輝も巻き込まれて父・義晴とともに朽木に落ち延びていました。状況的には織田と今川の調停なんてやってる場合でも気分でもないのですが、義輝は快く承諾します。

義輝は、三好長慶暗殺事件の折の光秀の叫びを覚えていたのです。武家の棟梁たる将軍が一言「争うな」とお命じにならなければ、世は平らかにならない。それが励ましになったのだ、と義輝は言います。

鎌倉時代以降、武家社会が到来すると天皇はほとんど「征夷大将軍」を任命する権威に過ぎない存在になっていきました。室町時代末期のこのころも、将軍は権威だけの存在で、実権は失われています。

そんな中でも、将軍の名が役に立つならば。義輝はそういう気持ちで調停を引き受けたのでしょう。「麒麟がくる道は遠い」。義輝もまた、麒麟の到来を心から待ち望む人でした。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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