「徳川秀忠」徳川家康の三男がなぜ江戸幕府二代目将軍になれたのか
- 2021/10/12
家康の三男でありながらその後継者として江戸幕府の二代目将軍に就任したのが徳川秀忠(とくがわ ひでただ)です。長兄には武勇に秀でていた松平信康、次兄には豊臣秀吉からその器量を認められていた結城秀康がいました。そんな中にあって、どうして三男である秀忠が家督を継ぐことになったのでしょうか?
今回は徳川秀忠の生涯と共に、なぜ秀忠が二代目将軍に選ばれたのかについてお伝えしていきます。
今回は徳川秀忠の生涯と共に、なぜ秀忠が二代目将軍に選ばれたのかについてお伝えしていきます。
家康の三男として誕生
母親は三河国の名家の出身
秀忠は天正7年(1579)、遠江国浜松で誕生しています。幼名は長丸です。母親は西郷局(お愛の方)で、家康が最も寵愛した側室ともいわれています。西郷局は室町期に三河国の守護代にもなっている土岐氏の一族、三河西郷氏という名家の出でした。二度嫁ぐも、二度とも夫に先立たれ、その後家康の側室となって、秀忠や松平忠吉を産んでいます。容姿が美しかっただけではなく、温和で誠実な人柄が家康や周囲の侍女たちに愛されていたと伝わっています。その温厚な性格が子である秀忠に受け継がれていったようです。『徳川実紀』では秀忠について、「仁孝恭謙の徳備」と儒教における最高の評価をしています。
兄二人の運命
秀忠の誕生年は家中が大きく荒れた年でもありました。長兄である信康とその母親で家康の正室にあたる築山殿が、謀叛の嫌疑で処刑されたのです。武田氏に通じてクーデターを起こす計画もあったともいわれています。さらに天正12年(1584)には秀吉と和睦を結ぶため、家康は二男であった秀康を秀吉の養子に出しています。天正18年(1590)には嫡男が誕生したことによって、秀康はさらに結城氏に養子に出されました。
このようにして兄二人が徳川氏当主の家督を継げない状態になっていたため、秀忠が後継者として育てられたのです。傅役として青山忠成、内藤清成が秀忠に付けられました。
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お江との結婚
天正18年(1590)は秀吉の命令によって小田原征伐が行われた年にあたります。このとき、秀忠は人質として上洛し秀吉と対面しました。さらに織田信雄の娘「小姫」(春昌院)を秀吉は養女として迎え、秀忠と婚約させています。この年に元服し、秀吉の偏諱を受けて「秀忠」と名乗るようになったのです。しかし、信雄と秀吉の間が険悪になったために小姫とは離縁となり、天正19年(1591)には小姫は6歳または7歳という若さで病没しました。そのため婚姻は成立していなかったという説もあります。
秀忠は家康の関東移封にともなって、武蔵国松山城1万石を与えられ、新たに酒井忠世を年寄(老中)に迎え、さらに従四位下侍従に叙任されています。
文禄4年(1595)には秀吉の養女となった「お江」(崇源院)と再婚しました。お江は、秀吉の嫡男である豊臣秀頼を産んだ淀の方の妹です。ちなみにお江は再々婚となり、前の夫とは秀吉の命令によって離縁させられ、次の夫は戦死しています。
秀忠とお江は多くの子供に恵まれました。(秀忠の庶子で嫡男である長丸は2歳で病没しています)
- 慶長2年(1597年):長女・千姫誕生。7歳で秀頼に嫁ぎました。
- 慶長4年(1599年):二女・珠姫誕生。3歳で加賀百万石の前田氏に嫁ぎました。
- 慶長6年(1601年):三女・勝姫誕生。11歳で従兄妹の越前藩主・松平忠直に嫁ぎました。
- 慶長8年(1603年):四女・初姫誕生。4歳で松江藩主・京極忠高に嫁ぎました。
- 慶長9年(1604年):二男・竹千代誕生。のちの3代目将軍となる徳川家光です。
- 慶長11年(1606年):三男・国松誕生。のちの駿府藩主・徳川忠長です。
- 慶長12年(1607年):五女・和姫誕生。のちに後水尾天皇の女御として入内した明正天皇の母親にあたります。つまり秀忠とお江は、昭和天皇の祖先ということです。
このように子女の多くは、江戸幕府を盤石なものにするための家康の婚姻戦略に利用されています。
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関ケ原の戦いでの失態
秀吉の命令で開始された朝鮮出兵の際には、秀忠は江戸に留まっています。この間、わずか14歳で中納言に任じられ、秀忠は「江戸中納言」と呼ばれています。たびたび上洛して秀吉に謁見していたようです。その秀吉の死後、秀吉の後継者を巡る権力闘争が激化していきます。その中心にいたのが秀忠の父親である家康です。そしてこれに反発する石田三成らと武力衝突をします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いです。
この天下分け目の大戦で、秀忠は下野国小山での軍議(小山評定)の後、東海道を進む家康の本隊とは別に4万ほどの軍勢を率いて中山道を進んで、信濃国の上田城で真田昌幸と一戦を交えます。いわゆる第二次上田城の戦いです。
しかし、真田の策略に翻弄(第二次上田城の戦い)されて足止めをくらい、関ヶ原の地(現在の岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原)における決戦に間に合わないという失態を犯してしまいます。対する真田勢はわずか2千に過ぎませんでした。
戦勝祝いと遅参した理由を伝えようと、秀忠は家康に面会を求めるのですが断られます。それだけ重いミスだったわけです。
もしかするとこの秀忠の軍勢が到着しなかったために、家康は三成に敗れていたかもしれません。秀忠は、榊原康政ら重臣のとりなしによって、数日後になってようやく家康に会うことを許されたといいます。
一方で秀忠の弟である忠吉は、関ヶ原の戦いにおいて敵将である島津豊久を討ち取るといった大きな手柄をあげています。武勇において秀忠が評価されないのは、この関ヶ原の戦いの失態が大きな影響を与えているといえるでしょう。
江戸幕府二代目将軍へ
関ヶ原の戦いの論功行賞や戦後処理が落ち着いた頃に、家康は重臣6人を集めて後継者を誰にすべきかを相談します。順当にいけば秀忠が後継者なのですが、やはり関ヶ原の戦いの失態が見過ごせなかったのかもしれません。実際、以下のように重臣の意見も分かれたといいます。- 二男の秀康:本多正信
- 三男の秀忠:大久保忠隣、榊原康政
- 四男の忠吉:本多忠勝、井伊直政
秀忠の年寄(家老)であった大久保忠隣は「天下を治めるためには、文武兼備の秀忠がふさわしい」として、秀康を推す本多正信と論争になりましたが、自分の主張を譲らなかったと伝わっています。
家康がどこまで重臣の意見を参考にしたのかは不明ですが、後日、これらの重臣を集め、正式に後継者を秀忠にしたことを伝えました。家康が築いた治政を律儀に守り抜くには、秀忠が最も適した性格だと判断したのでしょう。
慶長6年(1601)に権大納言へ昇進します。慶長8年(1603)には家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が成立したことによって、秀忠は右近衛大将に任命されました。そして元亀3年(1605)、家康から将軍職を譲られ、秀忠は江戸幕府二代目将軍となりました。
秀忠の治世
慶長16年(1611)、家康と秀忠は二条城で秀頼と会見を行い、成長した秀頼に危機感を抱くようになります。そして慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件をきっかけにして大坂の役が勃発しました。一時は豊臣方と和睦となりますが、将来に禍根を残さないようにと、秀忠は豊臣氏を滅ぼすことを望んでいたといいます。翌慶長20年(1615)に再び開戦した大坂夏の陣では、秀頼と淀殿を自害に追い込んで豊臣氏を滅亡させて徳川方の勝利となりました。
このとき、長女の千姫は、豊臣滅亡の直前に敵将の大野治長による配慮で無事に徳川方に返されています。しかし、秀忠は秀頼の妻でありながら大坂城から逃れたことを見苦しいとして、千姫としばらく対面しなかったそうです。
戦後、秀忠は諸大名を伏見城に集め、武家を統制するための法「武家諸法度」13箇条と、天皇や公家の役割などを規定した法「禁中並公家諸法度」を制定しました。
また、家康死後には将軍親政を開始して、多くの外様大名の改易するなど大名統制を強化しています。元和9年(1623)に嫡男である徳川家光に将軍職を譲った後も大御所として二元政治を行っており、寛永6年(1629)の紫衣事件では朝廷・寺社に対する統制を徹底し、武家政権の基礎を確立させています。
寛永9年(1632)に薨去。享年54でした。
おわりに
まさに家康が見込んだように、秀忠は江戸幕府の基盤を強化することに大きく貢献しています。「守成は創業より難し」という言葉がありますが、それを成し得る器量を家康は秀忠の中に見つけていたのかもしれません。【主な参考文献】
- 北島正元編『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
- 福田千鶴『徳川秀忠 ~ 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社、2011年)
- 本多隆成 『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)
- 小和田哲男『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)
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