「三善康信(善信)」大河『鎌倉殿の13人』のひとり。算道博士や明法博士を輩出した名門一族の出で、初代問注所執事
- 2022/03/01
平安末期、政治の世界で低い身分から殿上人まで上り詰め、鎌倉幕府に深く関わった人物がいます。初代問注所執事となった三善康信(みよし の やすのぶ)です。
康信は源頼朝の乳母を伯母に持っていました。そのため、頼朝と早い時期から交流を持ち、鎌倉下向後は頼朝の幕僚として活躍。訴訟行政に手腕を発揮していきます。
頼朝死後は合議制の構成員となりますが、会議は瓦解。以降は有力御家人の一人として、崩れていく体制を支えていきます。承久の乱で追討の院宣が出されると、病身ながら敢然と出撃論を支持。鎌倉方の勝利に貢献します。
康信は何を目指し、誰と出会い、どう生きたのでしょうか。三善康信の生涯を見ていきましょう。
算道の家柄・三善氏の一族に生まれる
保延6(1140)年、三善康信は 三善康光(あるいは三善康久)の子として生を受けました。母は源頼朝の乳母(比企尼・寒河尼・山内尼のいずれか)の妹だったと伝わります。
三善氏は代々太政官の書記官役を務め、明法(法律)や算道(算術)を家職とした家でした。『類聚符宣抄』によれば、三善氏は大陸からの渡来人であったといいます。
後漢王朝で東海王だった末裔・波能志(はのし)の子孫が錦宿禰を名乗り、貞観2(977)年に三善朝臣の姓が授けられました。一族の三善茂明は主税頭兼算博士を拝命し、子孫は代々算博士を継いでいきました。
算博士は大学寮で(官僚育成機関)で算道を教授する役職です。位階は従七位上相当の官職でした。朝廷から与えられる官位においては、従五位以上が貴族とされ、正六位以下は地下官人と呼ばれます。
三善氏は代々の地下官人でありながら、重要な役職を務める家として国家に奉職していました。
中央政界で官暦を重ねる
当時の中央政界では、家格(家柄の格式)によって極位極官(到達できる最高の位階と官職)が決まっていました。
康信の出身である三善氏は、地下官人という六位以下前後が相当の下級貴族です。五位以上の殿上人(清涼殿に上れる身分)や、それ以上の出世を果たすのは、かなり大変なことでした。
康信は従八位上・治部少録、正六位上と官暦を重ねていました。平治2(1160)年には、右少史(正七位上相当)となっており、極位極官が近づいていたと言えます。
右少史の所属する「史(ふみと)」とは、公文書の記録や作成を行う役職です。各省から集められた有能な人物が務めていました。やがて康信は、左大史(正六位上に相当)に昇進。康信は官僚の中でも家格はともかく、能力を評価されていたことがわかります。
しかし康信はさらなる立身を果たします。
応保2(1162)年2月には、中宮少属(后妃に関わる事務職)を兼任。中宮・藤原育子に仕えることとなりました。同年10月には従五位下に昇進。康信は殿上人となり、清涼殿に昇殿できる身分となっています。
承安2(1172)年、藤原育子(いくし)が皇后宮の称号に改められました。仕える康信も皇后宮少属となり、順調に出世の階段を登っていくかに見えましたが、翌承安3(1173)年に皇后・藤原育子が崩御。康信の役職も立ち消えてしまいました。
『山槐記』によると、康信は治承元(1177)年には「典薬大夫」となっていたと記載されています。
典薬寮は宮中で医療や薬の調合を行う部署でした。また、大夫は五位の通称ですから、「典薬大夫」は、長官で従五位下相当の役職である「頭」を指すと考えられます。推測すると、康信が次のキャリアである「典薬頭」に進んでいたことがわかります。
流罪となった源頼朝の協力者
頼朝との書状のやりとり
朝廷の下級役人のままであれば、康信も平凡な生涯を送るはずでした。しかし康信の伯母が源頼朝の乳母だったことで、河内源氏との繋がりが生まれていたようです。
頼朝は平治2(1160)年の平治の乱で源義朝(頼朝の父)が平家一門に敗れて以降、伊豆国に流されて流人生活を送っていました。
既に頼朝と個人的に関係を築いていた康信は、伊豆国の頼朝にひと月に三度も書状を送っており、京の政治情勢を連絡しています。書状の往信は、頼朝が流罪になってから20年も続けられました。康信が頼朝にかけていた期待と思いが窺い知れます。
治承4(1180)年5月、後白河院の第三皇子・以仁王が摂津源氏・源頼政と共に平家打倒を目指して挙兵。全国の源氏に対し、挙兵の令旨を発しました。
以仁王の挙兵はすぐに鎮圧され、頼朝も伊豆国を動きませんでした。しかし平清盛ら平家は全国の源氏に対して警戒の目を光らせていたようです。
このとき康信は頼朝に、平家による諸国の源氏追討の企みがあることを使者を通じて報告し、奥州(東北地方)へ逃げるように警告しています。当時の奥州には藤原氏が勢力圏を築いており、独立姿勢を保っていました。頼朝の弟・義経も藤原氏当主・藤原秀衡に庇護を受けていたのです。
しかし頼朝は逃げずに伊豆国で挙兵し、平家の一族で伊豆の目代・山木兼隆を殺害し、平家打倒の狼煙をあげます。程なく石橋山の戦いで大庭景親や伊東祐親らの大軍に敗退しますが、房総半島に逃げて勢力を挽回。万を超える大軍勢となって鎌倉を制圧しました。
出家して善信と名乗る
頼朝との関係は、康信を少しずつ、関東との距離を近づけていくことになります。
治承5(1181)年閏2月ごろに、康信は出家し、以降は法名の善信を名乗るようになります。
この頃は既に源平合戦が本格化し始めていた時期です。平家からすれば、頼朝に近しい人間を処罰する必要がありました。京にいる康信にも身の危険が迫る可能性は十分にあったことでしょう。少しでも危険を回避するため、出家という道を選んだ可能性があります。
同年3月には、平家の総帥・平清盛が病没。統率者を失った平家は組織として大きく弱体化していきました。前年には既に平家は富士川の戦いで頼朝に敗北し、反平家の挙兵は坂東から九州まで全国に広がっています。各地の源氏だけでなく興福寺などの寺社や豪族も決起。平家の鎮圧軍は少しずつ押され始めていました。
初代問注所執事に就任
寿永2(1183)年4月、康信は頼朝の召喚に応じて鎌倉に下向します。
源氏方が優勢となれば、京に攻め上って来ることは確実でした。頼朝は康信の巻き添えを避け、同時に自らの幕下に加えようとする意図があったようです。康信は24年ぶりに頼朝と鶴岡八幡宮の回廊(廊下)で再会。鎌倉において政務補佐をするように命じられます。
同年10月、頼朝に朝廷から寿永二年十月宣旨が降下。頼朝に東国の支配権が公的に認められました。東国支配認定により、のちの鎌倉幕府の統治機構が順次整備されていきます。
同月には公文所(公文書の管理組織)と問注所(訴訟取扱機関)が設立。康信は問注所の長官職である初代執事を拝命しました。
問注所は、訴訟において双方の審問と対立を行う機関でした。源平合戦の最中ではありましたが、訴訟に関する事案は武士たちの間で多数発生しています。
康信抜擢の理由は、頼朝との信頼関係だけではありませんでした。中央政界で培った康信の経験や能力に加え、三善氏自体が明法を修める家柄であったことが大きいと考えられます。
建久3(1192)年には頼朝が征夷大将軍に就任。鎌倉幕府の成立によって、新たな時代へと入っていきます。
鎌倉殿の合議制13人のメンバーとして
鎌倉の政治体制が揺らいだのは、将軍となった頼朝の死によってでした。
建久10(1199)年、頼朝が死去。後継の二代将軍となったのは、まだ18歳の源頼家でした。
若い頼家を補佐すべく、北条義時らは有力御家人13人による合議制を開催します。問注所執事である康信も、13人の一員に選ばれました。
しかし、将軍権力が抑制された形となったことで反発した頼家は、小笠原長経や比企宗員など自らの近習5人を指名し、彼ら以外とは面会せずに、歯向かうことも許さないという命令を発出しています。頼家の側近重用は、従来の取り決めを無視した独裁的なものでした。
合議制の構成員である梶原景時や大江広元、中原親能らが頼家を立てることで政治を主導しようとしていたため、御家人たちの不満は梶原景時に向けられます。
御家人たちは連判状を将軍・頼家に提出し、景時の鎌倉からの追放を求める事態にまで発展。結局、梶原景時は失脚し、のちに挙兵に追い込まれて討死しています。
正治2(1200)年には、合議制の構成員である三浦義澄と安達盛長が死去。十三人の合議制はわずか一年で消滅することとなりました。
こうした一連の事件の中、康信は存在感を消すことに徹していたようです。
訴訟関連は、問注所執事である康信に深く関わる事柄でした。しかし下手に関われば、将軍・頼家や御家人たちから恨まれるほどに事態は複雑化していたのです。
康信が合議制の解体後も、問注所執事であり続けたのは、処世というよりも時勢を見る目だったのかも知れません。
承久の乱において出撃論を支持
源氏将軍が三代で途絶えると、存在感を増してきたのが京の朝廷でした。朝廷はいまだに西国に強い影響力を有しており、後鳥羽上皇は政権奪取を虎視眈々と狙っていたのです。
承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇は諸国に「流鏑馬揃え」と称する動員令を発出。幕府に反感を持つ武士たちを集めます。
幕府執権・北条義時追討の院宣が発せられたことで、鎌倉方は大いに動揺していました。しかし頼朝の正室・北条政子が御家人たちに頼朝の恩義を演説。心を動かされた御家人たちは京方と戦うことを決意します。
軍議では出撃か、迎撃か、という問題が出ていました。御家人たちの多くは、出撃論には慎重な姿勢を抱いていました。朝廷に対して畏れ多いとして、箱根や足柄での迎撃を主張する者が大勢を占めています。
しかしここで康信が軍議に出席。「時間を無駄に使ったのは怠慢」と主張し、大江広元らの出撃論を支持します。当時の康信は病を得ており、同年1月に既に問注所執事を退いていました。康信は病をおして軍議に出席していたのです。
康信と大江広元は迎撃論のマイナス面を考慮していました。むしろ関所を守って時間を過ごすことは、関東の御家人たちを不安にさせる可能性があります。
北条義時や政子は、康信らの意見を採用します。鎌倉を進発した武士たちは、道中で次々と人数を増やしていきます。やがて総勢は十九万という大軍となっていました。
京方は一万七千ほどで美濃国に進軍。しかし鎌倉方の大軍に容易く突破されてしまいます。鎌倉方の大軍は京を制圧。後鳥羽上皇らを配流に処して、西日本にまで支配権を確立させました。
8月、乱の終結を見届けた康信は病によって世を去りました。享年八十二。
【参考文献】
- 本郷和人 『承久の乱』 文藝春秋 2019年
- 三島義教 『初代問注所執事三善康信』 新風書房 2000年
- 鎌倉市観光協会HP 「三善康信」
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