「北条政子」頼朝亡き後、幕府存続の危機を実質的な将軍として乗り切った尼将軍

北条政子(ほうじょう まさこ)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室で、続く2代・頼家、3代実朝の生母です。夫、息子ふたりを亡くしたのちは後継者不在の幕府を守るために「尼将軍」として幕府の政務を担ったことでも知られます。

いまだ悪女のイメージがつきまとう政子ですが、人生をよく見てみると、決して権力欲のままに生きた人ではなかったことがうかがえます。

源頼朝との結婚

北条政子は伊豆国の一豪族である北条時政の長女として、保元2(1157)年に誕生しました。北条氏の本拠地は現在の田方郡韮山町寺家字北条のあたりといわれています。

のちに将軍となる頼朝との出会いは、父の時政が伊豆に配流された頼朝の監視役を務めていた縁からでした。

頼朝は平治2(1160)年に14歳で伊豆に流され、当初は同じく伊豆の武士の伊東祐親(すけちか)が監視役をしていましたが、頼朝と祐親の三女・八重姫が深い仲になり男児までもうけていたことに祐親が激怒し、命からがら逃がれた頼朝を匿い監視するようになったのが時政でした。

祐親から逃れた一件は安元元(1175)年のことといわれており、『大日本史』ではふたりの結婚を治承元(1177)年としています。長女の大姫誕生が治承2(1178)年かその翌年ですから、だいたい20歳前後で結婚したようです。

物語ではありますが、『曾我物語』に政子と頼朝の出会いから結婚までが描かれています。これによると、頼朝は時政が大番役(京都の警護を務める。任期は3年)で嫡男の宗時とともに上洛している隙をねらって政子のもとに通うようになったようです。

「この姫君と申すは、伊東の姫に比ぶれば遥かにたちまさりて、春の花の風を厭ひ、秋の草の露に和する御粧、丹花の唇うるはしく、芙蓉の眸あざやかなり。宿殖徳本の姿は見るたびごとにうるはしく、衆人愛敬の容は片時も忘れ難く、一度逢ひては二度の別れん期をぞ悲しみ給ひける」
(『曾我物語』巻第二より)

「万寿御前」こと政子は八重姫よりもはるかに美しく、頼朝は一瞬も忘れ難く、契った後はまた別れることが悲しいほどだったようです。

父・時政の反対を押し切って頼朝に走る

この後の展開は、頼朝が最初の妻・八重姫と引き離された流れとほとんど同じでした。在京中の時政はこのことを知らされて驚き、猛反対したのです。時政はすでに平家一門の伊豆目代山木兼隆を婿にしていたので、素知らぬふりで政子を兼隆の邸へ送りました。

八重姫の悲劇と異なるのは、この後政子が自らの意志で逃げ出し、頼朝を選んだということです。『吾妻鏡』に、後年に政子が過去を振り返って言ったという言葉が記されています。義経を思って舞った妾の静御前に怒る頼朝をなだめるように、昔の自分も恋しく思う女心で行動したと次のように言っています。

「君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時冝。潜被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所」
(『吾妻鏡』文治2(1186)年4月8日条より)

「平家をおそれた父時政が私を閉じ込めてしまったけれど、それでも私はあなたをお慕いしていたので、暗い夜の闇にひどい雨を凌いであなたのところへ逃げていきました」という政子。八重姫の件と比べてみると、父親の言うなりに別の男と結婚させられてしまった八重姫のほうがありそうなことで、政子は並ではない行動力があったことがわかります。

実際のふたりの結婚がこのエピソードどおりなのだとしたら、政子の頼朝を慕う気持ちからくる行動力こそが、この後の北条氏の運命を変えたといえるでしょう。

二男二女に恵まれる

頼朝が治承4(1180)年8月に挙兵して10月に鎌倉に入ると、政子は御台所として鎌倉に迎えられました。このときにはすでに長女・大姫が生まれており、数え年で2、3歳であったようです。

その後、養和2(1182)年に嫡男の万寿(のちの頼家)を出産しました。政子妊娠中の着帯の儀で頼朝が自ら帯を結びました。また頼朝が出産祈願のために鶴岡八幡宮の社前から由比ヶ浜までの道をまっすぐに直して参詣道路をつくる事業を進めたという逸話も有名です。

大姫誕生のころはまだ流人でしたが、この時の頼朝は関東のほとんどを制圧して武士の主となっていたため、二人目とはいえ思い入れは強かったものと思われます。

その後も、文治元(1185)年ごろ(諸説あり)に次女の三幡(乙姫)が、少し間を置いて建久3(1192)年に次男の千幡(のちの実朝)が誕生しました。

頼朝の浮気

4人の子に恵まれましたが、特に妊娠中の政子を悩ませたのが頼朝の浮気でした。特に有名なのが、亀の前事件です。

頼朝は妊娠中の政子を気遣って安産祈願などあれこれ行う一方で、正室ひとりに満足せず愛妾のもとへ通っていたのです。これを時政の後妻・牧の方から聞いた政子は怒り、亀の前が滞在していた邸を破却させてしまいました。この件で邸をぶっ壊した牧宗親(牧の方の父)は頼朝の怒りを買って髻を切られ、さらに妻の父への処分を不服とした時政は伊豆へ引き上げてしまいました。

こんなことがあっても頼朝の愛妾への寵愛は変わらず、妻の怒りも何のその。ほかにも新田義重の娘を求めたり(結果、義重が政子に憚ってよそへ嫁にやった)、大進局(だいしんのつぼね/御家人・常陸介時長の娘)という女性との間に男児(貞暁)をもうけたりしています。

政子の怒りがすさまじいので、この男児は乳母・乳母夫のなり手がなく、7歳の時に出家のため上洛しています。頼朝はさすがに気を遣って、ひそかに太刀を与えて息子と別れています。

大進局のもとへは実朝妊娠中にも通っていたようで、妻の妊娠中に愛妾のもとへしげしげと通う、というのはどうもお決まりのパターンであったようです。

毎度毎度「絶対に許さない」という態度の政子と、どこ吹く風の頼朝。両者の結婚観の違いは、育った環境によるところも大きかったでしょう。少年期までを京の都で過ごした頼朝は、男が女のもとへ通う貴族の通い婚になじんでいましたが、田舎で生まれ育った政子はそうではなかったのかもしれません。

相次ぐ家族の死

平家が滅亡したのちに征夷大将軍となった頼朝は、建久6(1195)年に妻子を伴って上洛しています。

目的は東大寺再建法要でしたが、長女の大姫入内工作という目的もありました。政子は後白河院の寵姫の丹後局としばしば面会しており、その中で入内の相談がなされたと思われます。頼朝としては、娘を後鳥羽天皇に入内させて公武の結びつきを強めようというねらいがあったのでしょうが、政子はどうだったのでしょうか。

過去に大姫は、木曾義仲の嫡男・義高と婚約していました。頼朝と義仲の危うい関係を維持するため結ばれた縁でしたが、頼朝によって義仲が討たれた後、義高も殺されてしまいました。まだ10歳にも満たなかった大姫は慕っていた許婚の死にショックを受け、それからというものほとんど廃人のように生きてきたという経緯があります。

この入内の件以前にも結婚話は持ち上がったのですが、大姫が命を絶つとまで言って拒否したため白紙にもどっています。政子としては、天皇家との婚姻という、さすがに断り切れない結婚であれば大姫もしぶしぶ入内し、やがては義高との悲しい別れを乗り越えて幸せになるのでは、という思いがあったのかもしれません。

しかし、この入内は実現しませんでした。建久8(1197)年に大姫が亡くなったためです。そして続くように今度は頼朝が建久10(1199)年に病で急死(落馬が原因とも)。頼朝は次女の三幡を入内させようとしており、三幡は女御宣下を受けていましたが、父の死からおよそ半年後に病死してしまいました。

後家となった政子、ふたりの将軍の母として

頼朝が急死した後、政子は出家して尼になり、後家として若い第2代将軍を支えました。

相次いで夫とふたりの娘を喪った政子は、『承久記』の述懐の言葉によれば、大姫が亡くなって自分も死のうと思ったが頼朝に止められ、今度は頼朝が亡くなり今度こそはと思い詰めたけれども、まだ幼いふたりの息子が一度に両親を失うことになってはよくないと考え、なんとか思いとどまったのだとか。

頼家の時代

頼家は18歳で頼朝の跡を継ぎ第2代将軍となりましたが、政子から見ればまだ幼く、心もとない存在でした。そのため、若い頼家が独断で政治を行えないように宿老御家人13人による合議制が成立しました。

親族経営の会社でもよく2代目がダメにするといいますが、父・頼朝に比べるとぬくぬく育って苦労知らずの頼家はそれに当てはまるというか、案じた周りがそういうふうにしてしまったというか、早々にグレてしまいます。

お気に入りの側近以外は面会不可としたり、御家人の安達景盛の妾に横恋慕して連れ去り景盛を討とうとしたり、蹴鞠に夢中になったり……。政子は都度頼家を諫めて訓戒したり、時には頼家の蹴鞠に理解を示してみたり、頼家のそばで問題が起こらないように支えました。

問題は頼家の言動だけではありません。梶原景時の排斥に始まり、幕府の内紛が続きました。最たるものは、北条氏と比企氏との対立です。

頼家と妻の若狭局との間に一幡という男子が生まれ、その外祖父・比企能員が力をもつようになると、比企氏と北条氏の対立が始まりました。頼家から一幡へと代替わりすれば、権力も必然的に北条氏から比企氏へと移ります。それを阻止したい時政は、病弱であった頼家が病に臥せるようになると、「一幡に関東28か国の地頭職と惣守護職を譲ること」、「千幡に関西38か国の地頭職を譲ること」と決めてしまいます。そして、これを不服とした能員と頼家が時政討伐の密談を交わしていたとして、比企一族は一幡もろとも滅ぼされたのです。

この騒動の後、頼家は修禅寺に幽閉され、元久元(1204)年7月18日に暗殺されたと考えられています。頼家を出家させたのは政子でしたが、夫とふたりの娘を亡くし、息子まで死なせるようなことは許さなかったでしょうから、政子の知らないところで頼家暗殺が行われたものと思われます。

実朝の時代

実朝はわずか12歳で将軍になりました。元服したばかりの少年であったため、当然後見が必要になります。祖父の時政が執権となり、実朝を自邸に置いて幕府の実権を手にしました。

幕府の内紛は将軍が変わってもまだ続きます。元久元(1204)年、時政が畠山重忠を討った事件(畠山重忠の乱)で、重忠の謀反は濡れ衣で、潔白の重忠に時政が難癖をつけて滅亡に追い込んだらしいことがわかり、時政と義時(政子の弟)との間に亀裂が入ります。この件と絡んで、時政と牧の方は牧の方所生の娘婿・平賀朝雅を将軍にしようと企んでいる(牧氏事件)ことがわかると、政子はすぐさま時政邸の実朝を自分の手元に戻し、時政と牧の方を伊豆の北条に幽閉しました。

今度は義時を執権とし、また政子自身も積極的に動き始めました。このころ、かつてのように上皇を中心とした政治に戻したい後鳥羽院は、皇権回復のため倒幕の動きを見せていました。建保6年(1218)年には、政子自ら上洛して後鳥羽院の乳母で当時の権力者であった藤原兼子(けんし)と面談して実朝に実子がいないことを相談、上皇の皇子を鎌倉に下してくれるよう約束を取り付けました。

実朝は頼家と違って穏やかな性格で、藤原定家(ていか/『小倉百人一首』の撰者で知られる歌人)に教えを乞うほど和歌を好んでいました。後鳥羽院も勅撰集の『新古今和歌集』を編纂させ、実際には撰者のひとりであったほど和歌を愛した人であったため、趣味が同じ実朝は後鳥羽院に厚遇され、猛スピードで官位昇進し、27歳で内大臣にまでなりました。

実朝の貴族的な趣味と出世の速さを見ると、まるで貴族になろうかという様相で、ともすれば鎌倉の武士たちの不信・反感を招きかねないほどでした。政子は義時や大江広元と話し合い、実朝に讒言したものの、実朝は「子がない状況では自分が家名を挙げるしかない」と取り合わなかったとか。

建保6(1218)年12月、実朝はついに右大臣に任官が決まりました。その2か月前には政子も従二位に叙せられています。翌建保7(1219)年正月27日、実朝の右大臣拝賀の式が行われ、鶴岡八幡宮に参詣している最中、実朝は兄・頼家の遺児・公暁によって暗殺されました。とうとう、政子の子のうち最後のひとりまで失われたのです。

尼将軍

第4代将軍・頼経

実朝の葬儀が終わると、政子は上皇の皇子のうち六条宮(雅成)か冷泉宮(頼仁)かのいずれかを将軍とするため鎌倉へ下してほしいと申し入れましたが、拒否されました。後鳥羽院は「ひとりは鎌倉に下そうと思うが、今はその時期ではない」として、交換条件のように「摂津国の長江・倉橋の二荘園の地頭を罷免せよ」と求めました。この荘園は後鳥羽院の愛妾の白拍子・伊賀局に与えたもので、地頭と争いになっていたのです。

政子らは、こんな求めに応じて地頭を罷免してしまえば幕府が根元から揺らぎかねないとして、親王将軍を諦め、頼朝の妹の曾孫にあたる三寅(頼経/九条道家の子)を次の将軍とするために迎えました。鎌倉へ下った時、この頼経はわずか2歳の幼子でした。そのため政子が簾中で政務を担い、「尼将軍」と呼ばれるようになりました。頼経が成長するまでのつなぎとはいえ、政子は実質将軍の扱いでした。

最期の詞で御家人を鼓舞

承久3(1221)年、幕府が始まって以来最大の危機が迫ります。5月14日に諸国の武士たちが集められ、その翌日には京都守護の伊賀光季が殺害され、後鳥羽院による「北条義時追討」の宣旨が下されたのです。今までの内紛とは比べ物になりません。何しろ義時が朝敵とされたのです。

政子は義時、時房、泰時、広元と話し合い、京に出撃することを決定します。義時や泰時は関東で迎え撃つことを主張し、当初はこれが優勢でしたが、大江広元は出撃すべきと主張。政子もこれに賛成したようです。広元と同様に、都の情勢に明るい三善康信も広元の出撃論に同意しました。

こうして幕府軍は後鳥羽院の官軍が鎌倉に押し寄せるのを待たずに京へ向けて出撃し、結果は幕府軍の圧勝に終わりました。この承久の乱は、日本史上で官軍が賊軍にぼこぼこにされて大敗した唯一の戦いです。

結果は圧勝であったとはいえ、当初はどうなるかわかりませんでした。朝敵となった幕府の御家人たちは慌てふためいたはずです。この危機に御家人を集めてさとしたのが、頼朝の後家である政子でした。
この演説の中身は本によって少しずつ違いがありますが、以下に『吾妻鏡』の内容を引用します。

「皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罰朝敵、草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者」
(『吾妻鏡』承久3(1221)年5月19日条より)

政子が「最期の詞」として御家人一同に伝えたのは、「亡き頼朝様が朝敵を滅ぼして関東で幕府を開いて以来、朝廷からいただく官位や、また褒賞として与えられる領地、頼朝様のご恩は山より高く、海より深いもので、感謝する志は浅からぬものがある。ところがいま、逆臣の讒によって追討の宣旨が下された。名を惜しむ族(やから)は、院側近の藤原秀康、三浦胤義らを討ち取り、源氏三代の将軍のあとを全うしなさい。ただし、院中に参じようと思う者は今この場で申しなさい」という言葉でした。一同は涙を流し、心打たれたといいます。

義時の死と最後の仕事

幼い頼経を後見する政子の仕事はまだ続きます。貞応3(1224)年6月13日、政子と二人三脚で幕府を支えてきた弟の義時が急死したのです。政子は京都にいた義時の嫡男・泰時、義時の弟・時房を呼び戻し、泰時を執権に、時房を連署にし、将軍の後見を任せました。

義時には、伊賀の方という後妻がいました。後妻、というと時政と継室の牧の方が起こした事件を思い出しますが、伊賀の方もまた謀をめぐらしていました。伊賀の方は娘婿の参議右中将藤原(一条)実雅を将軍に据え、自身の子の政村を執権にし、自身とその兄・伊賀光宗とで幕府を掌握しようと企んだのです。彼らは政村の烏帽子親である三浦義村を味方にしようとしましたが、政子が直接義村を訪ねて詰問し、「企みを制止する」と誓約させ、事なきを得ました(※この伊賀氏事件は政子がつくり上げたものとする説もある)。

嘉禄元(1225)年、政子は病気になり、7月11日に亡くなりました。享年69歳。

「尼将軍」と称されましたが、政子自身、将軍として表の仕事をしたくてしたわけではないように思われます。何事もなければ、頼朝と子どもたちの菩提を弔って余生を過ごしたかったかもしれません。ただ、数々の危機を乗り越えて幕府を守り、信頼できる甥・泰時に託せたことには満足したのではないでしょうか。

北条政子の評価

北条政子というと、夫の浮気を我慢できない嫉妬深い女、そのせいで頼朝の直系男子が少なく、わずか三代で絶やしてしまった、また後鳥羽院を流罪にしたといった理由から、日本三大悪女のひとりに数えられることもある人物です。

特に浮気を許さない嫉妬深い性格については、時代が下るほどに女性の立場が弱くなる中、まだ女性の地位がある程度保たれていた鎌倉時代初期を生きた政子のまっすぐではっきりと態度で示す気性は、奇異に映ったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 野口実編著『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』(戎光祥出版、2021年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
  • 円地文子監修『人物日本の女性史第三巻 源平争乱期の女性』(集英社、1977年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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