「源頼朝」どん底の流人から征夷大将軍へ。鎌倉幕府創始者の生涯

「判官贔屓」という言葉があります。これは悲劇的な英雄・判官源義経に同情する気持ちのことをいい、そこから転じて弱者や敗者に同情し声援する感情のことをいいます。

この言葉に象徴されるように、古くから人々は平家を滅ぼした最大の功労者でありながら悲劇的な死を遂げた弟・義経に同情的で、反対に彼を死に追いやった兄・頼朝は冷酷な人間、という評価をされがちです。

このイメージから一般的には正当に評価されているとはいいがたいのが源頼朝(みなもと の よりとも)です。その生涯をみていきましょう。

源義朝の嫡男として

源頼朝は、久安3(1147)年(※享年から逆算)に河内源氏の源義朝の三男として誕生しました。母は貴族で熱田大宮司の藤原季範の娘(一般に「由良御前」と呼ばれる。本名未詳)です。

頼朝の上には異母兄がふたり(義平・朝長)がいますが、嫡男は頼朝でした。由良御前の家の身分が京で暮らす中流貴族(父は従四位下)で、兄弟に後白河院の北面(側近のこと)、姉妹には上西門院(統子内親王/鳥羽院皇女)の女房や待賢門院(藤原璋子/鳥羽天皇中宮)の女房がいたことが有利に働いたといわれます。待賢門院と、その子である後白河につながる人脈を持っていたのです。

そのためか、頼朝は保元3(1158)年に12歳で統子内親王に仕え、翌平治元(1159)年に内親王が女院(にょういん)宣下を受けて上西門院となると上西門院蔵人に補されています。さらに後白河院の第一皇子・二条天皇の六位蔵人にもなっています。


平治の乱

兄たちよりも出世が早く、源氏の御曹司として順風満帆に歩んでいくかに見えた頼朝ですが、同年に初陣を果たした平治の乱により人生が一変します。

平治元(1159)年12月9日、後白河院の寵臣・藤原信頼と組んだ義朝が院御所三条殿を襲撃。これは同じく後白河院の寵臣である信西(藤原通憲)との対立から始まった内乱です。

◆ 信西方
  • 信西
  • 平清盛
  • 平重盛
  • 平経盛
  • など…
VS
◆ 藤原信頼方
  • 藤原信頼
  • 源義朝
  • 源義平
  • 源頼朝
  • など…

襲撃はちょうど信西と結ぶ平清盛が熊野参詣で京を留守にしたタイミングでした。この結果、逃亡した信西を自殺に追い込み、後白河院を幽閉することに成功します。そして権力を得た信頼により、義朝は播磨守に、初陣を見事に果たした頼朝は従五位下・右兵衛権佐に任じられました。

ところが、知らせを受けて熊野から帰京した清盛に二条天皇を奪われ、後白河院も脱出。賊軍となった信頼・義朝は清盛に敗れてしまいます。信頼は斬首され、尾張に逃れた義朝も殺されてしまいました。

一方、逃れる途中で義朝と近江ではぐれた頼朝は、父の死もしらず美濃まで逃れ、そこで平氏方の平宗清に捕らえられて京の六波羅へ送られました。


20年の流人生活

普通なら元服した男子は斬首されるところですが、頼朝は思わぬ人物に助けられ、伊豆国へ配流となりました。

彼を助けたのは、清盛の義母である池禅尼(いけのぜんに)です。その理由について、『平治物語』では「早世した池禅尼の子・家盛に似ているから」、『愚管抄』では「幼いから」とありますが、いかにも物語的です。ほかに、上西門院から圧力をかけられたため、という説があります。

先述のとおり、頼朝は上西門院に仕えており、おばを通じてつながりもあります。池禅尼は崇徳院の皇子・重仁親王の乳母でしたが、保元の乱で平氏は崇徳院を裏切って後白河についた負い目があり、それが理由で崇徳院と同母妹の上西門院の要請を受けたといわれます。

こうして敵方の池禅尼の嘆願により死を免れた頼朝は、伊豆国へ流されました。永暦元(1160)年3月のことです。

最初は工藤祐継の監視を受けましたが、彼が亡くなると次は伊東祐親の監視を受けます。祐親は、かの曾我兄弟の祖父にあたります。
『曾我物語』によると、頼朝は祐親の留守中にその三女・八重姫との間に一男をもうけたましたが、帰ってきた祐親が激怒して頼朝を殺そうとしたため、祐親の次男・祐清に助けられて命からがら北条へ逃れたとされています。

そこで頼朝は北条時政の監視を受けることになり、彼の娘・政子と出会って結婚しました。

源頼朝の配流地・蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)にある頼朝と北条政子の像
源頼朝の配流地・蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)にある頼朝と北条政子の像


頼朝挙兵、平家を滅ぼす

以仁王の挙兵

流人生活を送ること20年。治承4(1180)年に転機が訪れます。

前年のいわゆる治承三年の政変で、清盛は後白河院を幽閉して院政を停止させ、傀儡として義理の甥である高倉天皇(清盛室・時子の妹・滋子所生)を譲位させると、安徳天皇(清盛の娘・徳子所生)を天皇にしました。

そこに、意のままに権勢をふるう清盛に反発する者が現れました。後白河院の皇子・以仁王です。以仁王は平氏打倒のため挙兵すると、令旨(りょうじ/皇太子・親王・三后などの皇族が発給する命令を伝えるための文書)を発給して諸国の源氏に挙兵を促しました。
八条院(暲子内親王/鳥羽院皇女)の蔵人・源行家(頼朝の叔父)から令旨を受け取った頼朝は、6月に挙兵を決意すると、8月に挙兵しました(挙兵を促した以仁王は5月中に敗死)。

その年の間に南関東を占領した頼朝は、10月中に鎌倉入りしました。20日、平維盛(清盛の孫)率いる追討軍と戦い、勝利しています。水鳥の羽音に驚いて戦わずに敗走したという逸話がある富士川合戦です。

頼朝はそのまま平氏を追って上洛をしようとしましたが、千葉常胤・上総介広常の言葉により関東の平定を進めました。

ちなみに、弟の義経との邂逅はこのころのことです。また鎌倉幕府の基礎ができ始めたのも同じころで、12月には侍所(御家人統制を行う機関)が置かれています。

木曾義仲との対立

一方、頼朝と同じころに信濃で挙兵した従兄弟・木曾(源)義仲は、頼朝に先んじて寿永2(1183)年7月に上洛を果たしました。

同じ源氏といっても、ふたりは対立する関係にありました。理由として以下の3つが挙げられます。

  • 武田信光は娘の婿に義仲の嫡男・志水冠者義高をと考えたが、義仲ににべもなく断られ、逆恨みして頼朝に「義仲に謀反の疑いあり」と讒言した。(『源平盛衰記』)
  • 頼朝の叔父の行家が甥に仕えることを嫌って鎌倉を去り、それを義仲が拾った。(『平家物語』)
  • 同じく頼朝の叔父の志田義広が、甥に仕えることを嫌って頼朝を襲撃しようとしたものの敗れ、義仲を頼って信濃に逃れた。(『吾妻鏡』)

またそれだけでなく、義仲が以仁王の遺児・北陸宮を奉じていることも対立の要因であったと思われます。これはのちの義経討伐にも共通する問題ですが、源氏の棟梁であろうとする頼朝にとって、彼に比肩する義仲は討たねばならない存在だったのです。

一時は義仲嫡男の義高を頼朝の長女・大姫の婿にすることで和議を結びますが、長くは続きませんでした。

平家を都落ちに追い込んだ義仲は頼朝より先に上洛したものの、源氏武将の勲功第一とされたのは頼朝で、続いて義仲、次に行家となりました。彼らがバラバラに動いていること・対立していることを知らない朝廷は、義仲らを頼朝の代官程度にとらえていたようです。

また北陸宮を天皇にと考える義仲は、皇位継承をめぐって後白河院と対立しました。反対に頼朝は後白河に近づいて「寿永二年十月宣旨」を受けます。この宣旨は、東国沙汰権・東国支配権を与えるというもので、つまり朝廷からの公認を得たということ。

これに義仲は怒り、11月19日に法住寺殿を襲撃すると後白河院を幽閉し、頼朝追討命令を出させました。翌年正月11日には、頼朝追討のため征東大将軍に就任しています。頼朝は同月20日、範頼(頼朝の異母弟)・義経を送って義仲を討たせました。


平氏滅亡

その範頼と義経こそ、この後の平氏との戦いで活躍した兄弟です。まずは元暦元(1184)年の2月に一ノ谷の戦いで勝利しました。

ちなみに、いわゆる「鵯越の逆落とし」は実は多田行綱の奇襲であるともいわれ、義経の軍功かどうか疑問視されているほか、『平家物語』の創作なのではないかという説もあります。

その後は、安徳天皇の内裏がある屋島への攻撃を担当する義経が京の治安維持にあたっており、伊賀・伊勢平氏の反乱を警戒しなければならなかったこと、また養和元(1181)年の大飢饉以来源平の争乱続きで、兵糧の徴収が難しかったことなどから、しばらくは思うように追討が進みませんでした。

文治元(1185)年2月、ついに義経が動いて屋島の戦いに勝利しました。義経はその勢いのままに、3月24日、範頼が九州に渡って平氏の背後に構える壇ノ浦にて平氏を滅亡させました。勝利した頼朝はその年の4月に従二位に叙せられ、公卿に列することになりました。

義経との対立

頼朝と義経の関係は平氏を滅亡させた直後から悪化していきました。一般に両者の対立の原因として、義経の自由任官問題や、兵士討伐において頼朝の許しなく行動し安徳天皇や二位尼(清盛室・平時子)を死なせたことなどが挙げられます。

しかし元木泰雄氏は関係の決定的な破綻を、義経の検非違使留任で鎌倉への召還を拒んだことにあるとしています(『源頼朝 武家政治の創始者』)。

義経は伊予守に補任され、通常昇進すれば辞任するはずの検非違使に留任したのです。これは後白河院の意向によるものと思われます。受領は任国にいる必要がなく、公家の場合は在京しますが、源氏一門は鎌倉に在任するものでした。

先述のとおり、頼朝は義仲討伐の際も源氏の棟梁としての権威を守ることを第一に行動しています。義経の場合もまた、後白河院の元で義経が頼朝に対抗する、あるいは頼朝嫡男の頼家にかわって後継者となる可能性を危惧したのでしょう。

義経は「第一の功労者の自分がなぜ……」と不満を抱いて反発したかもしれません。それに、同じように頼朝の元に集って戦功を挙げながら粛清された上総介広常、一条忠頼のことを思えば、鎌倉に行ったところで身の安全が保証されるとも限りません。

ふたりの対立は決定的なものになりました。義経は挙兵を決意し、頼朝は刺客を送ります。義経は後白河院に頼朝追討宣旨を出させますが、平氏討伐時ほど兵は集まりませんでした。それもそのはず、あれは皆平氏と敵対する自分たちのために戦ったのであって、今回は戦う意味がないからです。

義経が都落ちすると、今度は義経追討の宣旨が下されました。頼朝は後白河院に報復するように交渉し、義経に近い院近臣の解官と配流させ、頼朝派の議奏公卿による合議を決め、さらに九条兼実を内覧にさせました。

さて、京を出た義経は、九州へ渡ろうとして失敗し、京都周辺の寺社に保護されていました。同じく追討宣旨が出ていた行家が文治2(1186)年に殺害されると、義経の娘婿・源有綱など近しい人間が相次いで殺されていきました。

文治3(1187)年、義経はかつて鞍馬寺を出奔して以降過ごした平泉の奥州藤原氏・藤原秀衡を頼ります。しかし10月に秀衡が亡くなると、文治5(1189)年閏4月、頼朝の圧力に屈した泰衡により義経は殺害されました。

源義経の終焉の地とされる衣川館(奥州藤原氏の居館)跡にある高舘義経堂(岩手県西磐井郡平泉町)
源義経の終焉の地とされる衣川館(奥州藤原氏の居館)跡にある高舘義経堂(岩手県西磐井郡平泉町)

ところが頼朝は、結局奥州藤原氏がこれまで義経を匿っていたことなどを理由に彼らを滅ぼしました。奥州征討は勅許を得ないまま戦った私戦でしたが、「泰衡は代々河内源氏に仕えた家人にすぎない」と言い訳し、勝手に戦を行い滅亡させたことの正当性を訴えました。

頼朝にとって奥州藤原氏は頼朝の支配する関東に隣接した脅威であり、どうせいつかは滅ぼさなければならない相手だったのです。

征夷大将軍へ

建久元(1190)年11月、頼朝はようやく上洛を果たしました。京に入るのも後白河院に面会するのも、伊豆へ流されて以来およそ30年ぶりのことでした。京にいる間、頼朝は後白河院、後鳥羽天皇、九条兼実と面会しています。なお、頼朝はこの間に権大納言右近衛大将(右大将)に就任しますが、翌月には辞任して鎌倉に降っています。

およそ1年半後の建久3(1192)年3月に後白河院が崩御すると、頼朝は7月に征夷大将軍に任ぜられました。この征夷大将軍は頼朝が望んだわけではありません。「大将軍」を望む頼朝の要請を受けた朝廷が、「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の候補から選んだのが征夷大将軍だったのです。

惣官は平宗盛、征東大将軍は義仲が任ぜられていたため不吉だということで却下されました。また上将軍は中国の例しかないため、消去法で坂上田村麻呂が任ぜられた征夷大将軍が選ばれたといわれています。

頼朝の最期

建久6(1195)年に、頼朝は妻の政子、娘の大姫、嫡男頼家を伴って再上洛しました。名目は東大寺再建供養への出席ですが、頼家のお披露目や大姫入内工作も目的としていました。

そのころ、九条兼実は娘の任子を入内させて後鳥羽天皇の皇子誕生を待ち望んでいました。頼朝の大姫入内工作は兼実を敵に回す行動です。頼朝は後白河院皇女の宣陽門院(勤子内親王)や、その母の丹後局、女院別当の源通親に近づき、贈り物を用意して根回しを進めました。その間、兼実との関係は冷え込んでいます。

任子は同年に出産しましたが、生まれたのは女子でした。皇子ではなくがっかりする兼実を後目に、思わぬ出来事が起こりました。11月、通親室・高階範子の連れ子である在子が、第一皇子・為仁(のちの土御門天皇)を出産したのです。

建久7(1196)年、兼実をさらなる悲劇が襲いました。関白を罷免され、娘の任子も内裏から退出させられてしまったのです。次の関白には近衛基通が任ぜられました。建久七年の政変と呼ばれるこの事件の首謀者は皇子の外祖父となった通親でした。この騒動の中、大姫入内工作のため通親に近づいていた頼朝はただ静かに成り行きを見守り、黙認しました。

もっとも大姫入内をめざす頼朝にとって兼実失脚と任子の退出は好都合だったと思われますが、偶然が生んだ悲劇は頼朝にも起こりました。建久8(1197)年7月に大姫が亡くなったのです。頼朝はそれでも諦めず、今度は次女の三幡を入内させようとして女御宣旨を受けるところまでいきましたが、入内を叶える前に頼朝自身が亡くなってしまいました。建久10(1199)年1月13日のことです。

死因は糖尿病とも、落馬による怪我ともいわれます。

頼朝が願った三幡入内は政子に引き継がれますが、結局これも叶いませんでした。三幡もまた早世してしまったのです。頼朝の死後、将軍は嫡男の頼家、続いて次男の実朝に引き継がれますが、源氏将軍は3代で途絶えます。頼家は幽閉後暗殺され、実朝は頼家の子・公暁に暗殺されてしまったためです。

源氏の棟梁としての権威を守るため、冷酷とも評価される一族粛清を行った頼朝。3代実朝の死後、幕府を後鳥羽上皇の北条義時討伐という危機が襲いますが、混乱をしずめ御家人たちを奮い立たせまとめ上げたのは、頼朝室・政子でした。源氏将軍は3代で終わってしまいましたが、頼朝の作った幕府はこの後もしっかり引き継がれていきました。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 下出積與『木曽義仲 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館、2016年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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